Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録

全力で打ち返す

ひょんなことから人のカウンセリングをしている。

本当によくわからない成り行きで。近所のファミレスで。

私はなぜか、手に取るようにその人たちが、その人たちの抱えていることがわかる。

しかし、自分でもなぜなのか、よくわからない。

冷蔵庫をあけ、入っている材料で何が美味しく作れるか、ただ見えてくるみたいな感覚である。

そして、その料理のために下ごしらえと調理の順番を組み立てるように、アプローチをするだけだ。

なぜそんなにわかるのかと問われる。

今までこんな変化があったことはない、と彼らは驚きながら言う。

なんせ、彼らも催眠療法家であったり、心理療法家なのである。

そんな彼らが人目を憚らずに泣いたり、あまりのリラックスに寝てしまったり、

まとう空気感が大きく変わったりするのである。私の目の前で。

そして、私はその度に人間は実に不思議な生き物だなと思うのである。

その他の近況としては参加している心理学の勉強のグループの雰囲気がおかしかったので、何がおかしいか読み取って、私にわかる範囲で最適な行動をした。

その後のグループ内はほぼ予測通りの動きを見せている。

グループワークに適さない、個人的なニーズの重い人がいるとグループとしての成長の速度が遅くなり、そういう人を気遣いすぎて、集団カウンセリングするような感じとなる。

今回はそれがいちばんの問題だった。

それを私の一つの行動だけで振り分け、さらに今まで成長が阻害されていた人たちの能動性が発揮できるようにした。

ただ、こういうことをするといつも私はぎょっとされ、よく切れるナイフのような鋭さを人々に感じさせるらしい。

いつもはここ止まりで誤解されて終わるのだが、今回はそこをファシリテーターがなぜなのか、と問うてくれたので、私は、やっと、私が誤解される理由がわかった。

私の思考はとても早いようである。だから、他人からは理解しにくいらしいのだ。

このことを旦那さんは将棋でいうなら、100手先まで読んで1手を指す私の行動は10手先しか読めない人には「この手の意味が全くわからない…」って感じに見えるんだけど実はもうほぼ王手だから怖いんだよ、と私に説明した。

じゃあ、怖くないようにするには、私は、その行動に至るまでの、思考段階を一つ一つ説明しなきゃならないのかなあ?軽く50段階くらいあるし、そこには私が読みとった個人の印象という変数も加えて計算してるからそこも説明するとなると100段階は超えるけど?と聞くと、まあ、そうしないと全く理解できない人もいるだろうね、と旦那さんはいった。

でもさ、その個人の印象はそれを相手に言うとショックを受けるであろうこともたくさんあるから私は言わないで一気に一点突破にしてるんだよ。それが結局、一番ダメージが少ないからそうしてるんだけど、そこが私なりの優しさなんだけど…と言うと、旦那さんは困っていた。

そして、ファシリテーターの人も。

結局、誰も、私のやり方以外のより良き方法を提示はできないのである。

一見、全てがカオスになるような賛否両論の私の行動は実は全体最適にもなり、個々の最適にもなるように計算してある。もちろんそれを私は完璧とは思わない。

サイコパスっぽく見えてしまうのならやっぱりそれは改善すべきということだから。

でもとりあえず、きちんとなる。そして、現に、なっている。

ある人にはとても残酷な行動のように見えても、きちんと回復への最短ルートに乗るようにしてある。

だから、結局、的確で困るのだ、とファシリテーターの人は言った。

そして、そこで私が提示したそのグループワークの機能不全の問題点や改善点は今までどんなコンサルに見てもらったものよりすごい、と。

 

最近のことを考えると、つまるところ、私は行動に移すことを始めているらしい。

とても奇妙なやり方で。

以前と違うことは目の前に飛んできた球を無視するでもなく、何かを慮って手加減するでもなく、打てないふりをするでもなく、とりあえず片っ端から全力で打ち返すことに決めた、ただそれだけである。

気持ち悪さが気持ちいい

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ソマティックエクスペリエンスのセラピーに通い始めた。

しばらくはカウンセリングと並行することになる。

なんにせよお金がかかるものである。

お金をかけるのは、少しでも楽になりたいからなのだが、普通の家庭に生まれていたら、当然かからないお金なので、未だにこれをどう捉えたらいいのか、よく分からない。

なんか勿体無いような、あほらしいような気がやっぱりする。

だってさ、1回1万円だよ?それを何回もするんだよ?

カウンセリングも1回8640円だよ?こっちは2週に1回。もう2年通ってる。

私はひと月に3万近いお金を心理療法に使う。3万って結構なもの買えるよね。

あほくさいでしょ、こうなっているのは決して自分のせいじゃないのにさ。

まあ、そういう人生が私に割り当てられたということだけが確かで、その意味づけはお好きにどうぞ、ということなんだろうが、私はやっぱり、私の状況をありがたいなどとは微塵も思わない。(先生たちやお金がとりあえずある生活には思う)

けれども、それと同じくらい、安易に誰かや何かのせいにしたいともやはり思わない。なんかそれをしても結局何にも解決しないし、すごくつまらないから。

この状況をあほくさ!やめた!と心から思えば、私はセラピーもカウンセリングも勉強もその瞬間に放り出してしまうだろう。

私は私がなぜ今のところ、そのように放り出していないのか、とても興味深い。

私は私がとても不思議である。かつての私ならとっくに放り出しているはずなのだ。

必要以上にあほくさく、ばかげている、理不尽なかったるい人生に対し、もしかして、私は慣れてきたのだろうか?

あほらしさには、同じようにあほらしさを発揮して、とことんつきあうべきだと思ったのだろうか?

自分の気持ちもよくわからず、論理的にも成立していない人生の地点に、私はもう3年もいる。

なんで私はそんなところに3年もいられるんだろう?本当に謎だ。

気持ち悪さが気持ちいいブライアンイーノの曲をさらに気持ち悪く気持ちよくしたカバー曲。
私もなんかそんな感じなのかしら。

エナクトメント再考

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知人夫妻の様子を、双方どちらからも聞くと、エナクトメントがよくわかった。

奥さんは旦那さんに対して、エナクトメントをしていた。

エナクトメントは、かつての自分の気持ちや、いまの自分の気持ちで自明的ではない感情を他者に起こさせるようにしてしまう行動だ。

無意識下で「わかってほしい」があるために起きてきてしまうようである。

投影性同一視もわかりやすい部類のエナクトメントといえるのだろう。

相手に投影性同一視する部分とは自分と解離している自分の一部分であるからである。

一方で、反復強迫は、かつての自分の気持ちを他者に起こさせるのではなく、自分自身に起こさせるようにしてしまう行動だ。

無意識下で「確かめたい、納得したい」があるために起きてしまうようである。

とてもすっきりした。

 

ただ、これらはどちらかにぱっきりと別れている場合もあれば、密接に関わってもいるような場合もあるように思う。

私が彼に対して、どちらだったのか、という話になると、どちらもあるような気がするからである。

そして、彼が私に対して、どちらだったのかを考えても、やはりどちらもあるような気がするのだ。

単純ではないなあ…入り組んでいるなあ…と思う。

ただ、いずれにせよ、とにかく、無意識はなんとかしたくてたまらないのだな、というらしいことは確かである。

人間は精神も肉体も、常にバランスを取ろうとすることをベースに構造が作られている生き物のようだ。すごいなあ。

 

そういえば、長く書いていたアメブロを全て消してしまった。

なんか、もういいか…と思ったのである。

 

更にそういえば、ほぼ同年代であろう女性の解離性障害の人のブログを見つけ、読んでいた。

ハンドルネームと、書いてある珍しいことが気になったので、想像できる本名と珍しいことを検索したら、Instagramまでわかり、ああ、こういう人なんだなあ、こういう生活なんだなあ、とただただ眺めていた。

私のそこまでやる性格が怖いのか、インターネットが怖いのか、どちらかなのかわからない。どちらもだろう。

でも、私は彼女のInstagramをフォローもしないし、ただそれだけで、もう見ることもないだろうし、邪悪な気持ちは全くない。

なんというか、いろんな人がいて、いろんな人生があるんだなということだけを深く感じとった。

で、私の人生も、ブログも、誰かから見れば、そう見えてんだろうなあという事実をものすごく不思議に、変な感じに思った。

だから、自分のブログを消してしまったのかな。

 

更に更にそういえば、ふたりの友人たちが東京に遊びに来て、二日間、一緒に遊んだ。

みんなでサニーデイサービスの野音ライブに行った。

私はサニーデイサービスのライブは19年ぶりだった。

19年間私はなにをしていたのだっけなあ…と考えこんでしまった。

なんだか何にも浮かんでこない。

履歴書的な、自伝的事実は想起されるが、そこに私はどのような思いを感じていたかはまるでわからないのだ。

本当に浦島太郎のようだ。

友達たちは2001年、などというと、すぐさま当時のドラマやらニュースやらゴシップやらを話しだし、懐かしむことができる。

私はまず、なにが何年に起きたかが、まるでわからない。

友達たちは時間軸という直線に沿って記憶を並べているから、連なりを引き出すことができるわけである。

私は時間軸がない。出来事や事件などの記憶はあるが、水玉模様のようにぽこぽこ散らばっているため、連なっていない。

それぞれは別々の何かなのである。

1年後の私は1年前の私を覚えているだろうか。

私はどうにも自信がない。

というか実際に今、考えてみたが、1年前の私を私は全く想起できない。

ああ、だからブログはやっぱり必要なんだな。

思い出せなくなるから、私は書いているのではないだろうか。

私はなんで消してしまったんだろ、私の3年間のブログを。

 

一体なんなんだろうなあ。

私は人格は変わってないんだけど、記憶もあるんだけど、なんかすごい勢いで感情だけが揮発してしまって、大抵、何が何だかよくわからないのである。

いやいや、あなた、それが解離なんですよ、ということはわかるのだが、それがわかっても、私がわからないことをわかることには繋がらず、わかるとわからないがずーっと遠くに離れたままである。

試しに困ったなあと口にしてみるが、口にしてみると、本当に困っているのかもわからないなということに気付く。

困ってないのかな。うーむ。

でも困ってなければ気にしないよなあ。私は私がなにを感じているのか、本当によくわからない。

実に不思議である。

 

それにしても夜のメロディはいい曲だ。

どこか浮遊感のある曲は、曽我部の基本的にバーントシェンナ色の声とよく合って独特なドリーミーさを醸し出す。

そして、曽我部の母音は「あ」の音が赤色が強く、「い」の音がひまわり色が強いから、それがアクセントになりながらグラデーションで綺麗なんだ。

そして手触りはギャッベのような質感だ。少し引っかかりがあるんだけれど、それが温かみとなっている。

いつまでも、少し手のひらで撫でながら、それに座っていたくなる特別なグラデーションのギャッベ、そんな声だ。