Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録

Neil Jung

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かつて私が暮らしていたマンションの下を通り過ぎる。

思わず、最上階の角の部屋のベランダを見上げてしまう。

私はエアコンの室外機に少し腰掛け、彼は横に立つ。

今もそんなことがどこか違う世界では進行しているのではないか。

そう思って不思議な気持ちになる。

私はどうしたらよかったのか。何を間違えたのか。

自分に問いかけていた時もあったけれど、もう、そうするまでもない。

私はどうしたらよかったのかわかっていた。できなかっただけだ。

何を間違えたわけでもない。その時はそれが最善だと思っていただけだ。

けれど、ただそれだけ、が、その後の時間の流れを大きく変えることもある。

 

私はこれからどうやって生きていくのかな。

本当はどうやって生きたかったのかな。

これまでどうやって生きていたのだっけな。

そんな疑問が巨大な湖のように私の目の前に現れて、私はそれを毎日じっと見つめている。

見つめていると、私はどこか根本的なところで生きるのをやめていたし、今もそれは進行中だと気がつく。

何もかもが割とどうでもいいのは、そういうことだった。

私は決して心が広いわけでも、大雑把なわけでも、我慢強いわけでもなかった。

単純に諦めていたのだ。

能動的に生きることを放棄していたとも言えるだろう。

今更、一体どうしろっていうんだ…と完全に途方に暮れながら、私は私の人生と相談にならない相談をしている。

 

高校生の頃、ものすごく好きだった曲を最近、またよく聴いている。

その曲はNeil Jungという。ニールヤングっぽい曲に、自分のことを他人事のようにみてユングっぽい精神分析的な歌詞にしているから、このタイトルらしい。

ニールヤングもそれほど良く知らず、ユングのことも心理学の偉い人くらいの知識しかなく、英語の歌詞もただの音にしか聞こえていない当時の私だったけれども、本当に大好きだった。

今、パソコンでこうして聴いても、落として壊れてきちんと閉まらなくなって無理やり輪ゴムで留めていたウォークマンでよく聴いてたことを思い出す。

あの、つるつるした白いウォークマンの真ん中に幅の広い輪ゴムを二重。

買い換えるならMDプレーヤーかCDプレーヤーか、とよく思っていた。

結局、私はどちらにも買い換えず、第一世代のiPodが出た時に買った。

この曲はiPodになっても、iPhoneになっても、iMacが形をどれだけ変えても、必ず入り続けている。

 

Was going nowhere
Couldn't take the pain and left it there

そう何度も歌うこの曲。私はその歌詞をあらためて聴きながら、初めて聴いたかのように、これはまるで私のようだと思う。 

行き詰まっていた、痛みをどうすることもできず、置き去りにして。

日本語にしたら、こんな感じだろうか。

私が何度も何度も繰り返し、置き去りにして諦めていたものが、目の前の巨大な湖なのだろうか。

だとしたら、この湖はひょっとして私の涙でできているのではないか。

そんなことを思う。

この湖は私の青の世界の湖と一緒なのだろう。

曲の歌詞のように、私も自分をユング的に解釈する羽目になっているなんて、不思議なものだ。そして困ったものだ。

何がどうなっているんだ。

September

Mariya Takeuchi - September - YouTube

 

昨日はSEだった。SEを受けると、なんとも表現しがたい感覚になる。

施術の最後にはしっかりグラウンディングするし、施術中にも身体に少しでも凍りつき反応(解離の一歩手前)が出た時はゆっくりとそれが収まってくるまで待つので、明らかに離人感や解離ではないのだが、終わって、外へ出ると、どことなく世界全体が膨張しているような気がするのである。

行き交う人々、見慣れない目黒駅の風景を眺めながら、この膨張感はなんなのだろうと思う。

答えは出ない。

そのまま三田線、浅草線と乗り継いで、地下鉄の中で先生からもらった資料に目を通す。

 

私はインテーク時に「ガイアタイプ」と言われた。

「このタイプなら大変だったでしょう、とても疲れるでしょう」

先生はそういって簡単にガイアタイプの説明をしてくれたが、私はより詳細が知りたかったので検索したり、手持ちのSEの本を読んだが記述が見つからなかった。

英語で検索しようとしてもそもそも綴りがわからないのだ。

試しに”SE gaia"と検索すると全く違うことになる。

多分何かの頭文字をとっていて綴りは独特なのだろうと思われた。

そのため、先生に調べたけれど、わからなかったので資料が欲しいと言っておいたのだ。

もらったばかりの資料を見るとGHIA(GLOBAL HIGH INTENSITY ACTIVATION)とあった。

やっぱり、頭文字綴りだったかと思いながら読み進めた。

 

端的にまとめられた言葉の一つ一つを静かにゆっくり読んでゆく。

一通り、読み終わって、先生と同じようなことを思った。

「こんな感じじゃ、とても疲れるし、大変な人生だよなあ…」と。

*GHIAは中枢神経系全体の膨大な刺激と活性化を伴うカテゴリーであり、身体の生理機能すべてに影響を及ぼす。この状態では有機体全体が終末期の生存反応に向かう。

*自己調整の能力がほとんどない大規模な覚醒。システムは完全に「オン」になっているか完全に「オフ」になっているかで、これらの両極端の中間にある反応はほぼアクセス不可能である。

*過度な一体化や一体化の欠如は一時的に生存のための重要な戦略となる。

*刺激に対する自分の反応を処理することがクライアントにとっては非常に重要に感じられる。なぜならこれこれがシステムの圧倒やそれと同時に起こる崩壊、過覚醒、解離を防ぐために用いられる主要な対処メカニズムだからである。

何度も読み返し、これじゃあまりにも気の毒な人生だ。

大雪が何日も降り止まず、永遠に春の来ない街で一人、一生懸命雪かきをするが力尽きてしまい、何もできないまま、雪が降り積もるのをただ見ているような、その瞬間、やっぱりこれじゃ雪に埋もれて死んでしまうからだめだとまた雪かきし始めるような、その繰り返し、終わらない静かな地獄。

雪は音を吸う。静かで終わることのない死ぬまで続く大雪と雪かき。

資料の平坦で端的な言葉の向こうから、そんな必死なイメージが浮かんだ。

 

資料をバッグにしまい、地下鉄を降り、階段で駅の外へ向かう。

ふと、そこで、我に帰り、あ、そうか、これが私なんだ、これに気づかず、私は30年以上生きてきたんだ、と初めて気がつく。

自分の解離にも気がつかず、自分の身体の疲れや緊張にも気がつかず、ひたすら雪かきをして生きてきたのだ。大雪と雪かきこそが人生なのだと思って。

私のこれまで人生って一体なんだったんだろう。

精神と身体がまるで一致せず別人のように存在していた私の人生。

そこまで思い至った時、私は涙を抑えることができなかった。

みるみるうちに溢れる涙は頬を滑り、どうすることもできず、とっさに下を向くと、階段に向かって涙が何粒も落ちていった。

私の精神と身体が急激に近づき、ぴたりと重なった瞬間をもたらしたのは彼だった。

初めて感じた、この人といると、息がしやすい、身体が楽だという感覚。

あの感覚があったからこそ、そして、それが失われてしまったからこそ、私は精神と身体、ふたつに分かれてしまっていた私という存在に気づくことができたのだ。

私は、私の人生は、彼に助けられたのだ、と、はっきりわかったからである。

 

今、私は竹内まりやのSeptemberを聴いている。

彼と外でご飯を食べている時、彼のiPhoneにとにかくたくさんぎゅうぎゅうに入っている曲を見せてもらっていた。

もうすぐ9月だったし、私は目についたこの曲について話した。いい曲だよね、と。

再生ボタンを押してイヤホンの右と左を彼と分け合って聴いてみた。

彼はからし色のシャツ…と言った。

たことない、からし色のシャツ着てる人なんてと私は返した。

そんな時間にしたら5分もないであろうことを私はよく覚えている。

こんな些細なことをなぜ覚えているのかはわからないけれど、3年越しでやっと私は、あの頃の私に何が起きていたのかはわかるようになった。

もし、あの頃の、まだのんきに彼のことをただ新しくできた友達だと思ってる私に、タイムマシーンに乗って行って、何か言えるとしたら、少し前の私なら、大変なことが起こるから、彼にはもう会わない方がいい、と忠告しただろう。

でも、今の私なら、その時間を大切にして、と言うだろう。

ただ、いつだって、何も言えないのだ、過去の私に、未来の私は。

全力で打ち返す

ひょんなことから人のカウンセリングをしている。

本当によくわからない成り行きで。近所のファミレスで。

私はなぜか、手に取るようにその人たちが、その人たちの抱えていることがわかる。

しかし、自分でもなぜなのか、よくわからない。

冷蔵庫をあけ、入っている材料で何が美味しく作れるか、ただ見えてくるみたいな感覚である。

そして、その料理のために下ごしらえと調理の順番を組み立てるように、アプローチをするだけだ。

なぜそんなにわかるのかと問われる。

今までこんな変化があったことはない、と彼らは驚きながら言う。

なんせ、彼らも催眠療法家であったり、心理療法家なのである。

そんな彼らが人目を憚らずに泣いたり、あまりのリラックスに寝てしまったり、

まとう空気感が大きく変わったりするのである。私の目の前で。

そして、私はその度に人間は実に不思議な生き物だなと思うのである。

その他の近況としては参加している心理学の勉強のグループの雰囲気がおかしかったので、何がおかしいか読み取って、私にわかる範囲で最適な行動をした。

その後のグループ内はほぼ予測通りの動きを見せている。

グループワークに適さない、個人的なニーズの重い人がいるとグループとしての成長の速度が遅くなり、そういう人を気遣いすぎて、集団カウンセリングするような感じとなる。

今回はそれがいちばんの問題だった。

それを私の一つの行動だけで振り分け、さらに今まで成長が阻害されていた人たちの能動性が発揮できるようにした。

ただ、こういうことをするといつも私はぎょっとされ、よく切れるナイフのような鋭さを人々に感じさせるらしい。

いつもはここ止まりで誤解されて終わるのだが、今回はそこをファシリテーターがなぜなのか、と問うてくれたので、私は、やっと、私が誤解される理由がわかった。

私の思考はとても早いようである。だから、他人からは理解しにくいらしいのだ。

このことを旦那さんは将棋でいうなら、100手先まで読んで1手を指す私の行動は10手先しか読めない人には「この手の意味が全くわからない…」って感じに見えるんだけど実はもうほぼ王手だから怖いんだよ、と私に説明した。

じゃあ、怖くないようにするには、私は、その行動に至るまでの、思考段階を一つ一つ説明しなきゃならないのかなあ?軽く50段階くらいあるし、そこには私が読みとった個人の印象という変数も加えて計算してるからそこも説明するとなると100段階は超えるけど?と聞くと、まあ、そうしないと全く理解できない人もいるだろうね、と旦那さんはいった。

でもさ、その個人の印象はそれを相手に言うとショックを受けるであろうこともたくさんあるから私は言わないで一気に一点突破にしてるんだよ。それが結局、一番ダメージが少ないからそうしてるんだけど、そこが私なりの優しさなんだけど…と言うと、旦那さんは困っていた。

そして、ファシリテーターの人も。

結局、誰も、私のやり方以外のより良き方法を提示はできないのである。

一見、全てがカオスになるような賛否両論の私の行動は実は全体最適にもなり、個々の最適にもなるように計算してある。もちろんそれを私は完璧とは思わない。

サイコパスっぽく見えてしまうのならやっぱりそれは改善すべきということだから。

でもとりあえず、きちんとなる。そして、現に、なっている。

ある人にはとても残酷な行動のように見えても、きちんと回復への最短ルートに乗るようにしてある。

だから、結局、的確で困るのだ、とファシリテーターの人は言った。

そして、そこで私が提示したそのグループワークの機能不全の問題点や改善点は今までどんなコンサルに見てもらったものよりすごい、と。

 

最近のことを考えると、つまるところ、私は行動に移すことを始めているらしい。

とても奇妙なやり方で。

以前と違うことは目の前に飛んできた球を無視するでもなく、何かを慮って手加減するでもなく、打てないふりをするでもなく、とりあえず片っ端から全力で打ち返すことに決めた、ただそれだけである。