Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録

エナクトメントか、反復強迫か

カウンセリングだった。

エナクトメントについて話した。

私はさまざまな事象をまとめてエナクトメントと見ていたが、先生は違うのではないか、と言う。

まず、エナクトメントは人によって解釈が全然違い、扱いが難しいという。

私の話を整理すると、エナクトメントというよりは、反復強迫のほうがすっきりするようだ。

 

私が聞き役になってしまうことには大まかに2パターンある。

普通の人がなぜか話したいスイッチが入るパターンは、この人ならわかるという安心感が私との間にうまれるからであり、ある種の投影が私になされている。

自己愛的な人は最初は上記と同じなのだが、それがだんだんと攻撃排除に変わりだす。こちらのパターンでは、彼ら/彼女らは私に投影、または、投影性同一視している。

ただそれだけなのだが、それが私のトラウマと同じ形をしており、そこで私はなんともいえぬ空虚さを抱いてしまう。

私はいま、ここにいて、目の前の人の話を一生懸命聞いているのに、その目の前の人は私に話しかけてはいないという点で。

話す人たちは、みな、うっとりと自己陶酔して独り言の世界にいるか、私ではないものを見ながら話している。

私はそのとき、まるで実態のないホログラムか、透明人間になった気がする。

私はここにいるけれども、もしかしたら、ここにいないのではないか?本当に私はいるのだろうか?という不安、疑問を抱えた孤独感。

これはエナクトメントというよりは反復強迫なのではないか、と先生は言うのである。

 

投影されたことに対して私が感じる孤独感。空気の薄さ。世界の遠さ。誰も私が見えていないのではないかというひとりぼっちの感覚。

このように捉えると、この感覚は「離人感」ではなく、私の心象においては、れっきとした事実なのだろう。

さらに言えば、その繰り返しに対して、私が自我を守るためにとった防衛機制は自分の感情を切り離す「解離」であって、だからこそ、延々、人の話を聞けるということになるのだろう。

 

彼は、私にとって「見えないはずの私」を反復強迫しようとしたのに、そうはならなかった存在、ということになる。

同時に彼もまた「話せない、話してもわかりあえない」という反復強迫をしたかったのにも関わらず、現実はそうではなかったために混乱をきたした。

どちらにとっても、それはおそらく初めての感覚だったのだろう、と先生は言う。

その初めてのことに混乱し、彼は私といるときの自分は虚像だと言い残し、いなくなった。

私は何が起きたのかを躍起になって調べ始めた。

 

彼は私に投影はしていなかった。

しかし、私は彼に強烈に投影していた。

私は感情が解離していたために、彼が母親の話をするときに見せた苦悩、悲しさ、罪悪感などを通して、初めて、それが私にあることを認識した。

彼のした話は、確かに彼の話だが、私の話でもあったということを、彼は知らない。

私は私の話を、当時の時点では、話すことができなかったからだ。

彼の母親と私の母親は全く同じことを言う人たちだった。

そこで、私は彼と私の線引きが極端に曖昧になった。

彼は私なのか?私は彼なのか?

調べれば調べるほど、それは心理学的な裏付けが取れて、私を驚かせた。

不完全な解離、解離、彼と私を分けた一点はそこであり、それはまさに双子のような病理だった。

しかし、私は私の母親には見出せない点を彼の母親に見出した。

それは彼ではなく、私の希望であった。

どうにかしたくてたまらず、勉強をしていた、というわけである。

 

私は私にされる投影にはえらく敏感である。それがトラウマともいえるからだ。

だからこそ、自分は、慎重に、慎重に、なるべく投影せずに物事を見るくせがついた。

それが直観力というものなのだと思う。

それなのに、私は完全に彼に投影していたのだということに先日、ようやく気付き、愕然とした。

先生は致し方のないことだと言った。

あなたが投影できる人はほとんどいないはずだ、投影というよりは、鏡像を見たというほうが正しい、と。

あなたたちはどれだけ見立ての類型を学ぼうと当てはまらない人たちだ、と。

 

ふむ。

確かにエナクトメントではなく、反復強迫と考えると、だいぶすっきりしてきた感じはする。

しかし、私は一体、どうしたら良いのだろう。

まるで糸の切れた凧のような気分が続いている。

やることがなくなってしまった。

本もパタリと読めなくなり、彼によく似た綾野剛の出てる映画やドラマをNetflixでみることもパタリとやめた。

人の話を聞くのに心底疲れた。

先日は彼に会って以降、見ることのなかった追いかけられる夢を久しぶりに見た。

身体が疲れきり、不眠はかなり続いている。

夜な夜な、彼を思い出しては感情的に泣き、いや、もはや全く好きではないし、もう執着する理由なんてなくなったじゃないか、彼の母親は彼の母親であり、私の母親ではないのだから、終わり終わり!などと冷静に思い、相変わらず、両極を揺れる。

あげくに申し込んだ講座はやっぱりやめようかと考えこんでいる。

そもそも、私は誰かに触れられたくないし、触れたくもないのに、なんで愛着障害に特化したSEのタッチングを勉強するのか意味がわからない。

習っても自分にできないし。

私は私のことが、全くわからなくなった。

ずっとわかってないのだが、ずっとわかってない上に更にわからなくなった。

ついでにいえば、エナクトメントと反復強迫の違いもわからなくなった。

反復強迫フロイトの考えだが、そこにユングシンクロニシティ的な概念を取り込むとエナクトメントになる感じもするが…

調べたいが、とにかく、気力がない。

エナクトメント

エナクトメントという概念がある。

岡野憲一郎さんのブログから抜粋するとエナクトメントとは以下の通りだ。

エナクトメント[行動に表れること]精神分析状況において治療者ないし患者の意識化されていない心的内容が言動により表現されることを指す。

解離においてはこのエナクトメントは非常に重要な要素となる。

解離している人にとって、解離している部分とは当然見えないし、わからない。

そのため、解離の人を見る心理療法は基本的にクライエントにもセラピストにも四方八方が霧で何も見えないような中を進むことになる。

生育歴や心的外傷エピソードはもちろん道しるべとなり、ヒントとなるが、それ以外にも解離ポイントが多く隠れているのが解離の人たちである。

そして、それがどこにあるかわからない。

解離性障害の人は多くの場合、心理療法中に解離性遁走を始めることはない。

解離性遁走は一種のアクティングアウトと言える。

アクティングアウトというとBPDをすぐに思い浮かべるが、それ以外でも起こることだろう。

アクティングアウトが契機となり、セラピーが前進することも多い(もちろんうまく扱えればだが、うまく扱えなくとも、種は撒いたと言えるので失敗と言い切れるものでもない)。

つまり、解離の人にはアクティングアウトは起きにくい、その代わりに役に立つのがエナクトメントなのだ。

 

解離性障害に特徴的な症状として「させられ体験」というのがある。

https://susumu-akashi.com/2015/11/schizophrenia_and_dissociative-disorder/#6-2

こちらがわかりやすいので、そのまま引用すると

解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)にはこうあります。

解離ではまず自明な自があって、そこに他が入ってくるのをどこかで感じている。自はその他の力に身を任せ、他になりきってふるまうことさえもある。 あくまで「なりきる」のであり、統合失調症の作為体験のように「させられる」ことはない。 「自に他を取り入れている」のであって、「自が他によって取り入れられている」のではない。(p150)

 私はこの「させられ体験」こそがエナクトメントなのではないかと思っている。

心的外傷を持つ人が、心的外傷の再現や再演が起きやすいというのは、心的外傷時と似たようなシチュエーションにおいて、このエナクトメントが発動するからなのではないかと思う。

それは心的外傷を似たような違う形で体験することにより、記憶の上書きをして、心的外傷時の痛みやインパクトを緩和しようとする無意識の力とも言えるだろう。

私自身の体感、体験を正直に書くなら、人はいつなんどき、何をしでかすかわからず、それが私への攻撃にいつ転じるかわからぬ怖い存在である。

しかしながら、少し考えればわかる。

世の中の人が皆、あらかじめ怖い要素を持った存在だったら、大変である。世の中はもっと殺伐としていたっておかしくないのだ。

では、なぜ、私が、そのような攻撃に”さらされまくる感じがする”のか?

この答えがエナクトメントなのである。

私の無意識の力で他者を怖い存在にさせてしまっている、というわけなのである。

私のトラウマが、私の/相手の無意識下でシナリオを書き換えて、私の「させられ体験」になるようにしていると言ってもいい。

決して、運が悪いわけでもなく、そのような星の下に生まれたわけでもなく、私の無意識が、勝手にそうしているのだ。

 

エナクトメントは

https://susumu-akashi.com/2017/05/rhythm-dd/#HSP

ここで書かれているリズム引き込み過剰にも近いものを感じる。

私自身はHSP解離性障害と思われるが、もし引き込み過剰だとするなら、エナクトメントの力も過剰なのではないだろうか?

まるで台風の目のごとくに。

私は多くの人から「セラピスト向き」と言われてきた。

実際、私はいろいろな人にいろいろなことを”語られる”し、いろいろな話を”聞かされる”。

その時、私はセラピスト、ないしは、まるで小さな子の話を聞くお母さんを”させられる”感覚である。

私はそんな状態を望んでなどいない。むしろ逆で、恐ろしく疲れるのでやりたくない。

でも、そうなる。事実として、そうなり続けているのだ。

それは決して私にセラピストとしてのプレゼンスがあるわけではないのだと思う。

私の無意識が、人とのかかわりのシナリオをそうなるように書き換えているだけだ。

私は幼稚園の頃から延々と母の愚痴を、呪いの言葉を聞かされ続けていた。

そのトラウマを少しでも軽減させたいがために、私の無意識が、他人をそこに引き込みまくるエナクトメントが起きているのではないだろうか?

 

このことを考えていたら、思い出したことがあった。

私が知る中で、最も勘がよく、何かを見る力のある人であるところの彼は、言った。

「お前といる時の俺はおかしい、いつもと違う、お前といる時だけ、なぜペラペラと自分のことを話してしまうのかわからない、怖い、お前といる時の俺は虚像なのだ」と。

これはもしかしたら、全く正しいことなのではないか?

なぜ、私は、繰り返し、繰り返し、同じような事態になるのか?

私は、そんなことが起きる世界や同じようなことを言う人々が不思議で仕方がなかった。

しかし、私の無意識がエナクトメントとして、それらを作り出しているとしたら、全て納得がいくのである。

そして、何かは知らずとも、気配として、確実にそれを感じ取っていたのは、やはり彼だけだったのであろう。私は驚きを隠せない。

私は超HSPだと言われている。

HSPでも引き込み過剰の台風のような状態だとするなら、超HSPは巨大台風とも言えるだろう。

エナクトメントも強力ということになる。

困った。私の無意識がエナクトメントをやめるにはどうしたらいいのだろう。

このエナクトメントをどう役に立てるか、それが私の治療の一番のポイントに間違いない。

ただ、一つ言えるのは、このように意識に上がった時点で、もう完全な無意識で行われることではなくなったということ。

私にできるのはエナクトメントの気配を感じたら、注意深くトラッキングすることだ。

私の意識が無意識に追いつけば、それを止められる。

マイファーストセラピー

儲かってたって 死にかけてたって どうかしてたって 夏は暑い

そのようにスチャダラパーのボーズが歌うサマージャム2020。

その通りだ、夏は暑い。誰にだって夏は暑い。

知的障害があろうと、発達障害があろうと、精神疾患があろうと、複雑性PTSDであろうと、解離性障害であろうと、夏は暑い。

これは私にとって、かなり大きな気づきであった。

陽の光、ホットコーヒー、ストーブ、そんな皮膚からの刺激を通して、あたたかさを感じる脳の部位がある。

島皮質と線条体である。ここはあたたかさを感じると興奮する。

しかし、物理的な皮膚から感じるあたたかさだけではなく、心理的なあたたかさを感じた時も同じように興奮するのだという。

同じように寒さを皮膚から感じると反応する脳の部分がある。扁桃体である。

ここはストレス、不安や恐怖などのネガティブな感情を感じる部分でもある。

脳は賢いようで賢くないので、ここで、私たちはすっかりごまかされてしまう。

つまり、あたたかい部屋で過ごすと心まであたたかくなる、寒い部屋で過ごすと不安になる、という傾向が誰にもあるのだ。皮膚を持っている限り。

また逆に、心があたたまるとたとえ冬でもほかほかした感じがして安心して、心がショックで冷えるとひんやりした感じがして不安になったりするわけである。

これで私はわかった。

夏の暑さで人が解放的になる理由が。暑い島の人々がどこか自由な空気を身にまとっている理由が。

演歌で失恋をした人が北へ向かう理由が。緯度が高い地域で自殺率が高い傾向がある理由が。

 

皮膚は第2の脳と言われている。

それは細胞分裂が起きて、人が人という生命になってゆく過程で外胚葉という同じ部分が分化して脳と皮膚になってゆくからだ。皮膚は露出した脳なのである。

トラウマは身体に記憶されるということがわかってきたために、ソマティックな体を使ったトラウマセラピーはいくつも生まれた。

筋肉をほぐすボディワークが有効とされるのもそういうわけである。

特に一過性のトラウマではなく、長期のトラウマによる不安や恐怖でずっと緊張が起きていて、自身の筋肉がこわばったりしている複雑性PTSDやそれによる解離が強くある人はその筋肉の緊張に本人がまず気づくことからそれらのセラピーは始まる。

しかし、その肝心の不安や緊張はどこからきたのか、なぜ癒えないのかといえば、愛着を形成する3歳までにトラウマを受けているからだ。

3歳未満の左脳が機能していない時代に、皮膚感覚で恐怖をキャッチし、右脳でその感覚やイメージや体感だけを記憶しているのだ。

恐怖は筋肉にも影響するが、決して筋肉がキャッチしたわけではない。

まず、皮膚が文字通り凍りつき、固まるから、その内側の筋肉が自由に、必要な動きができなくなってかたまってしまうのだ。

だから、筋肉よりもまずは皮膚の緊張を取ることが重要となる。

皮膚の緊張は温めること、肌触りが心地よいと感じるものに触れることで緩むそうだ。

皮膚、筋肉を通して感じられるセラピーでの人の手のあたたかさが、心理的なあたたかさにもなりえるし、普通の受容と傾聴のカウンセリングや診療で感じる心理的なあたたかさが身体の緊張をほぐすこともある。

どちらのルートでも人が癒されてゆくことを私は不思議に感じていたが、それは物理的なあたたかさも、心理的なあたたかさも、私たちには同じように感じられるからなのである。

ただ、解離や強いフラッシュバックがある人はどうしても自らで「語れない」部分がある。

解離している時やフラッシュバックをしている時は、自分でも明らかになっていない、わからないことがものすごく多いためだ。

その一番、あたたかさが必要だった「語れない」部分で安心や安全を感じたいのに、そこをうまく「語れない」からこそ、セラピストやカウンセラーも「わからない」ままなことが多い。

だからこそ、トラウマがある人は語りが基本のカウンセリングより、皮膚や筋肉から働きかけるセラピーの方が効果が早い傾向が強いのだろう。

 

私は、解離していたので(今もしてるけど)、よもや私に精神疾患があるなんて、彼に会うまで思いもしなかったし、全く気づかなかった。

彼に会って、なぜそれがひっくり返ってしまったのか。

それは、彼に触れられたからである。

彼は最初に会った時、私の二の腕に触れた。

私はとても変な、不思議な感じがした。それは強烈に私の中に残った。

当時の私は、まだ自分に接触恐怖があるということに自明的ではなかった。

けれども、触れられることに不快感をよく感じていたのは事実で、でも、彼に触れられた時は嫌ではなかったのである。

それが不思議で仕方がなかったのだ。

その二の腕は私がいつも痛い左の二の腕の、まさに痛いところなのである。

皮膚も筋肉も緊張で固まりまくっている部分。

そこに触れて、彼は「癒される」と言った。

なんじゃそりゃ、と当時の私は思ったが、今ならわかる。

間違いなく、あの瞬間は、彼ではなく、私が癒されていたのだ。

私は解離しているから、そのことに気づかなかった。

ただ不思議な感じとして記憶したのだ。

その後の私の大混乱ぶりはその「予期せぬソマティックなトラウマセラピー」によるものだったのだろう。

 

トラウマセラピーは当たり前だが、受けに行く人は、受けに行くぞと決めた段階で、ある程度の覚悟と準備をしている。

その覚悟と準備なきままに、それが偶然に起きてしまったらどうなるか想像してほしい。

一言で言えば暴走暴発である。

私は見事なまでに解離し、解離性遁走までして、完全にコントロールレスだった。

そして、そんな自分を全く理解できなかった。

同時に彼のことも全く理解できなかった。

だから、勉強したのだろう。

誰が何を言おうと、どれだけ支離滅裂に見えようと、気になることを片っ端から調べ続けた結果、3年かけて、私はやっと全ての謎を解いたのである。

彼との出来事は、私が経験した一番最初のセラピーだ。

転移も逆転移も甚だしい無茶苦茶なとんでもないセラピー。

でも、間違いなく私の人生を変えたセラピー。

彼は私にとって特別なセラピストだ。

私もできるなら、彼のセラピストになりたかったけれど、それは叶わなかった。

彼にとって特別なセラピストはどこか違うところにいるのだろう。

彼がそんなセラピストに会えることを私は静かにずっと願っていようと思う。

 

参考書籍

皮膚は「心」を持っていた! 山口創

身体のホームポジション 藤本靖