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Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録 解離性障害とともに

ぱちり

アドラーという心理学者がいる。

ここ数年、人気があるようで日本では何冊も本が出ているし、ドラマなどにもなったらしい。

(私はテレビを見ないので、このドラマを知らなかったけど見てみたくなった)

アドラーは原因論ではなく目的論の人である。

子供が不良になっているのは、親の育て方が悪いからだ!とか、発達障害かもしれない!と原因を探すのではなく、不良にみえる行動になにか子供なりの目的があるはずだ、と見る感じ。

事実として在る「子供の行動」はひとつだ。

例えば、誰かを殴ったなら殴ったという行動は確かに在り、動かしがたい事実である。

いつだって事実はひとつしかないから。

でも、その事実を見るときの視点はいくつもある。

いくつもある視点から見えるものは事実ではなく、その視点からの真実だ。

ある人にはあの子の親が悪いという真実があり、ある人にはあの子は発達障害だろうという真実がある。

真実はいくつもあるのだ。

だから、人々は争う。

自分に見える真実こそが真実だと言い張り、パワーゲームに陥ってゆく。

しかし、目的論を知っている人はゲームをしない。

あの子はもしかしたら自分や他の誰かを守りたい目的があったのではないか?口が達者じゃなくて気持ちを言葉にできないから代わりに手を出すことでその目的を果たそうとしているだけではないか?と直観を使って、見る。

そして、目的論の人は、その直観からの推論を子供にたずねて検証してみるだろう。

正解なら、子供はそうなんだよ!って自分の話を打ち明けてくれるからすぐわかる。

違っていたら、また推論をする。

それが目的論だ。

 

私はなるほど!アドラーすごい!目的論って優しい視点だなあ!と感動したりして、できる限り、物事をそうやっていろんな角度から見たいし、見ようと心がけていた。

でも、目的論で生きるというのはなかなか難しい。

アドラーは先生であり、学者さんであり、権威があるから、難なくできたのかもしれない。

「ただの人」の私が勇気を持って指摘したり、提言したりしても「意味不明なことを言っている」で終わらされたり、鼻で笑われたり、ブチ切れられたり、反抗的だと怒られたり、とにかく理解されにくすぎるのである。

「嫌われる勇気」というタイトルのアドラー本があるが、実際に目的論を生きるには、嫌われる勇気だけではなく、精神力や自己肯定感もたくさん必要となり、それが尽きると、私のように「通じなさ」に嘆く羽目になるのである。

 

私は前回、「通じなさ」依存症をやめると書いた。

その記事には複数の人がコメントをつけてくれて、私はとても興味深く、楽しく読んだし、ありがたいなあと思った。

私は私自身を目的論で見ることがとても苦手だけれど、コメント欄にはそれぞれの人が目的論から見てくれた「私には見えていなかった私」がいた。

そして、それらは「原因論の生み出すパワーゲーム」を下りたはずの私が「原因論と戦うパワーゲーム」に知らず知らずにはまっていただけなのだと気づかせてくれたのだ!すごい!

そこまで来たら、あれ?私、通じない世界にいたはずなんだけど、いまここは、通じる人がたくさんいる世界だね?あれ?ワープした?という気持ちになっていた。

コメントがついて対話ができるのもそもそも通じてるからなのだ!

 

ぱちり。

ぱちりという言葉は目が覚めるときや、写真を撮るときなどに使う。

当たり前だが、目が開かねば目は覚めないし、ピントが合わねばカメラのシャッターも押さない。(意図的にそうしない場合はあるかもしれないが)

私は目が覚めたから、写真が撮れた。

写真には不思議な風景が写っていた。

いま、わたしたちがいる場所は同じ場所だ。時代も同じだし、地球上だし。

しかし、そこには見えないふたつの流れがはっきりと写し出されていた。

過去からの流れと未来からの流れ。

同じ場所にいるけれど、それぞれが見ている流れは違う。

過去からの流れを見ている人は過去からの慣習や常識、経験を重んじている。

未来からの流れを見ている人はよりよくあるために違う何かを探している。

向いている方向は逆向きだ。

 

どちらの流れも私たちは見ることができるが、どちらの流れもあるということを忘れてしまいがちだ。

私が忘れて、溺れてしまうときは、いつも過去からの流れに溺れている。

あのときはこうだったから今回も同じに違いないとか、どうせできないよとか、そんな過去が溢れてきて、圧倒されてしまう。

私は人よりも少し、過去の流れが強かったし、そこでひとりぼっちだったから、とにかく全身に力が入って、溺れてしまいやすいみたいなのだ。

過去からの流れが悪いわけではない。

その流れが素敵で楽しんでいる人もたくさんいる。

人によって、心地よい流れは違うのだ。

私には過去の流れは激流に感じる、というだけ。

だから、過去の流れにどっぷりの人とはやっぱり通じないところが多いだろう。

通じなくてもいいし、それで当たり前なんだ、と気づいたら、ちからが抜けた。

流れが違う人はいまこの瞬間、この場所で通りすがっているだけ。

次の瞬間には過ぎ去ってしまう。

でも、同じ流れの人ならば、少し先でも、少し後ろでも、会話ができる。

流れがゆるやかなら、すごく遠くでも、目が合えば、互いに手を振るくらいの余裕もあるかもしれない。

そして、もしゆるやかな流れに私が完全にいることができたら、流れが違うほうで溺れている人に、もう私が使っていない浮き輪を投げてあげられるかもしれない。

 

私たちは見ようとさえすれば、いつでもふたつの流れを見ることができる。

私たちは見ようとさえすれば、その流れにある、いくつもの真実も見ることができる。

そのことはまるで、どの瞬間も、あっちもこっちも、写真におさめたくて仕方がなくなってしまう素敵な旅行先に来たみたいな新鮮さを私にもたらす。

夢中で写真を撮る。

ぱちり、ぱちり、ぱちり。

たくさんのぱちりが響くと拍手の音のようだ。

ぱちりぱちりぱちり。ブラボー!

依存症

私は幼稚園に上がるあたりからよく咳をする子だった。

眠る前に咳が止まらなくて、むせて吐きそうになる程、涙が出てくる程、咳が出る。

病院では喘息ではないと言われ、原因不明だったが、心肺機能を高めるために水泳を勧められ、私はスイミングスクールに通っていた。

埃のせいかもしれないからとぬいぐるみは与えられなかった。

気休めのように出る薄いオレンジ色のトローチを幾度も舐めたことを覚えている。

こんな風にして、その都度、風邪かな、アレルギーかな、私は喉がウィークポイントなのかな、となんとなくごまかしながら過ごしてきたが、これはおそらく心因性咳嗽だ。

その中でもヒステリー球、梅核気と呼ばれるものだ。

喉のあたりに丸い玉がある感じがするのだ。

それが唾を飲み込むときにも感じられ、ひどい時は文字通り、ご飯も喉を通らない感じになる。

彼と最初にはなればなれになった時もヒステリー球が現れた。

それに対し、あの時、私をみた精神科医は半夏厚朴湯という漢方薬を出した。

これは全く正しい処方だったのだろう。

ただ、あの時は、処方が出たと同時に私は家出をし、彼に会ったので、薬が効いたのか、会ったことが効いて症状がおさまったのかははっきりとわからない。

 

ヒステリー球、という名前には苦笑と同時に納得だ。

解離性障害の昔の名前がヒステリー。

見た目には何も炎症のない喉だから、ないものがあるように感じられる神経症の人特有の症状に見えてこの名がついたようである。

しかし、実際は交感神経が活発になりすぎて、そのせいで喉の筋肉が収縮して異物感、違和感が出ているそうだ。

交感神経が活発ということは過覚醒、緊張状態ということ。

まさに愛着障害を持つ異邦人、解離性障害複雑性PTSDの人には大いに起きうる症状と言える。

心的外傷の再現時は特にそれが顕著だが、そうでなくても、常に過覚醒、緊張気味なのが異邦人だ。

そのため、異邦人は普通の人から見たら、そんなストレスは日常茶飯事でしょと怒られたり鼻で笑われたりすることでもびっくりするほど、体力を消耗し、色々な症状が出ることが多い。

解離がある私の場合は記憶も感覚も飛ぶ。

おとといなどはそれで帰り道に車に轢かれそうになってしまった。

ハッと気付いたら車が目の前に突っ込んできて、目が覚めた。

危ないどころの話ではない。運転手さんにも申し訳なかったが、それまで私は自分がどこで何をしていたのか完全にわからなくなっていた。

 

しかしながら、危ない思いをしても、この経験は無駄ではなかったと言える。

私がこの喉の違和感を改めて考えたり、ストレスの原因が何かを改めて考えることができたのはフォーカシングをするようになった時期に、ストレスがかかる新しい試みをしたからなのだ。

私が今、何を感じているか。

私の身体はどういう感じか。

私はストレスの中で「この人、通じない」と思った時、二の腕と首が凍りついて、かたくなることがわかった。

そして、そのすぐ後に全身が重くなり、力が抜けてしまうが、妙に冷静になり、あとは全て「はあ、そうですか」と淡々と対応することもわかった。

この一連のことがものすごくストレスになって疲れてしまうらしいこともわかった。

何かを言っても無駄であるとわかる時、私はされるがままになってしまうのだ。

それでも、今回はそのお馴染みのルートをなんとか回避し、私は意見を言ってみた。

そこでも「やっぱり通じない」が繰り返し起きた。

その疲れが一定のレベルに達すると最初は、日常と全く同じ夢を見るようになった。

夢なのか現実なのかわからないほどにリアルな解離特有の夢だ。

次に首の痛み、その次に左側の鼻づまり、ヒステリー球の順であった。

鼻づまりについても今回、初めて調べてみたが、首や肩の筋肉が固まると頭部のリンパの流れが悪くなり、それが鼻の血管を圧迫することで鼻が詰まることがあるらしい。

全部、繋がってるんだということに私は身をもって、やっと気付いたのである。

 

私は首がウィークポイントなのは事実だろう。

首が凍りつき、首が痛くなり、首がこり固まり、首のあたりが詰まるのだから。

更に大事な事実は、少しでも気をぬいたり、焦って物事を決めると、私は通じない人がいる場所や状況を「自ら選んでしまいがち」だということである。

これは私の心的外傷の再現がいかにしておこるかの仕組みを表している。

このことは本で読んで、頭ではわかっていても、なかなか落とし込めない部分だった。

私にとっては「通じなさ」とは、とても馴染み深いものだ。

私の通じない筆頭は両親ゆえに、私は長い間「通じなさ」と共にあった。

認めたくないが、ある意味で私は「通じなさ」と親和性がとても高くなってしまっていて、「通じなさ」に引き寄せられてしまうのだ。

何も考えず散歩をするとき、気がつけば似たようなルートを取っているなあと思ったり、一番近いと思い込んでいたコンビニが実は2番目に近くて、1番目とは100mの違いだったとグーグルマップで知って驚いたり、ということが先日実際にあったのだが、これと同じようなことなのだと思う。

自分の中に根付いた思い込みが、私を自動操縦しようとしてくるが、私はそれにハンドルを預けてはいけないのである。

自動操縦だと「通じなさ」に引き寄せられるように行ってしまう。

私は「通じなさ」にできるだけ、衝突しないように、感じて、試して、確かめて、大丈夫だと思う人や場所をひとつづつ、焦らずに見つけていく必要がある。

今はまだ「通じなさ」だらけの道にしか見えない。

でも、きっと「通じなさ」のない道にたどり着くだろう。

または、自分で運転してるうちに運転がものすごくうまくなって、どんなに「通じなさ」というトラップが多い道でも、回避できるようになるかもしれない。

どっちでもいい。

とにかく、私はなんとしても、「通じなさ」依存症をやめる!

気がついたら「通じなさ」を味わってて、そこには無力感と絶望感がもれなくセットなんて、お酒を飲みながら、なぜ飲まずにいられないのか、どうしたらいいのかと悩むアルコール依存症とそっくりだ。

 

そして、ここまで思考がたどり着いた時、私はまた少し、彼と自分の関係性がわかった気がしている。

彼にはアルコール依存症に見える症状があって、私はそれをすごく気にしていた。

今の私は、彼は本当には依存症ではなかったと充分にわかっているが、いろいろなことを勉強するまでは気になって心配で仕方がなかったのだ。

それは私にも同じような症状があったからなのだろう。

私は一体、いくつの物事の理解を彼との関係から学んできたか、もうわからない。

ハコミセラピー

グラン・ブルーという映画がある。

見たのはDVDではなく、まだビデオで、高校生のときにツタヤで借りたのだったと思う。

すごく簡単にいえば、素潜りで海の深くまで潜るダイバーたちの話だ。

私はかろうじて泳げる程度で、当然ながら海の奥深くの風景は知らない。

現代はカメラも素晴らしくなったので、そのような映像や写真を私たちは当たり前に見ることができて、思い浮かべることだってできる。

しかし、実際のそこには、そこにしかないものがあって、それは映像や写真には映らなかったりもする。

どんなに技術が発展しても、潜らずして、それを実際に感じることはなかなか難しいのが実情だろう。

(ありとあらゆる芸術はその「自分に感じられたこと」をなんとか現そうとする試みだし、バーチャルリアリティの技術もまたそれを目指してるから、多分それはいつか実現するだろうけど)

だからなのか、私はグラン・ブルーという映画の評価ほどには、この映画から肝心の何かをいまいち感じることができてはいないような気が、観たときにした。

 

海の深くにも風景があるように、身体の深くにも、そして、意識の深くにも、風景はある。

私は最近、そんなことを思う。

NLPや心理学などを総括した勉強会に4月から私は参加しているが、そこでは4月、5月とフォーカシングの練習、体験をしている。

フォーカシングはダイビングと同じだ。

自分で、自分の中に、自分のペースで潜っていくのである。

潜れる深さも、ペースも人それぞれ。

深いから/早いからいいものでもないし、浅いから/遅いから悪いわけでもない。

身体の疲れ具合や体調、気分でそれは容易に変わるし、どれもそれが「今日のいま、このときの私」だというだけだ。

そして、そのことから「あ、疲れてたんだ」「なんか冴えてるみたい」といまの自分のことがわかる。

そういう「わかる回路」を繰り返して使っていくことで、その「わかる回路」の感度と能力が強化される。

そうなると、フォーカシングをせずとも、自分のことがわかりやすくなってくる。

必要なときに深く早く的確に、不必要なときにはさらっと浅くのんびり楽しく、調節できるようになればきっと最高だね、というだけで基本マイペースで良いし、むしろマイペースでなくてはできないし、そのマイペースをつかんでいく作業とも言える。

それがフォーカシングの概要と目的だ。

 

このフォーカシングというものを知って、体験すると、私はこれを昔もしたことがあるなと思った。

私の色彩学の先生は毎日朝晩と瞑想をしている。彼女は多分、今もしているだろう。

彼女は私が受けていた授業の中に瞑想を取り入れていた。

イメージの中で風船を膨らませる。

その風船を持って、すうっと、ぷかぷかと、降りてゆく。

どこへ?とか思っても「思っているなあ」って思いながら、降りてゆく。

降りた先で感じること、思うことはただただ次々に流していくだけ。それだけでいい。

彼女はそう言っていた。当時の私は???ってなりながらそれをしていた。

私のヨガの先生たちは何人もいるが、みんな同じことを言っていた。

先生のポーズを見て、声を聞いて、自分も同じポーズをする。呼吸を合わせる。

しかし、そのポーズをしているつもりでもできていない時もある。

かたちはそっくりにできていても、力が入る箇所が全然違っていて、そのことで呼吸をしなくていけないのに気がつけば呼吸が止まっている時もある。

「身体と呼吸に意識を向ける。意識と身体を合わせる訓練がヨガ」

先生たちはそう言っていた。私はわかるようなわからぬような気持ちでそれを聞いていた。

今となってみると、瞑想とヨガとフォーカシングはどれもよく似ているように私は思う。

 

 

先日、受けたローゼンメソッドもタッチングを通して、自分が感じること、溢れ出てくることにフォーカスするものだった。

瞑想やヨガと決定的に違うのはタッチング、触れることを通して行われる=他者がずっとそばにいる=自分が感じていること他者に話すという点である。

昨日、受けたハコミセラピーもまたローゼンメソッドとよく似たものだった。

違いはローゼンメソッドが「静」なら、ハコミセラピーは「動」という感じ。

ハコミセラピーは例えていうなら「セラピーという場」の中でセラピストも私もころころと転がりながら、感じることを見ていくものだ。(実際に転がりません、一応ね)

順番も、セオリーもない。

ただそこは「セラピーの場」なのだということが絶対的にあるだけだ。

「セラピーの場」は互いに傷つけたり、傷つけられたりはしない、あらゆるジャッジの重力がない場所ということだ。

セラピストのすることはころころとクライエントと一緒に転がりながら、クライエントから出てくる言葉や体感を大切な料理の材料として拾っていくことだ。

「緑、丸くない、少し苦い」そんなキーワードから、それはなんだろうね?と一緒に緑で丸くない少し苦いものを丁寧に見ていく。

そうして、ああ、それはピーマンだ!と互いに確認していく。

その繰り返しで、いくつもの材料の確認を終えたときにはクライエントの「料理」が自ずと見えてくる。

ハコミセラピーはそんなセラピーだった。

1回ですぐに見える人もいるだろうし、少し日にちを置いてじわじわの人もいるだろう。

2回、3回とセラピーが必要な人がいるかもしれない。

 

アートセラピー、ナラティブセラピー、ローゼンメソッド、ハコミセラピー。

これらについて、私はこれまで言及してきたが、それらはどれも似たような構造を持つ。

まずは絶対的な「セラピーの場」の保障だ。枠、設定、世界の構築だ。

それは「ここは安全です」と口で言うだけでは生まれない。

そこにはセラピストの持つセラピスト性がどれだけあるか、が関わっている。

次にその場でセラピストがどれだけの役割を同時進行でできるか、だ。

「優しい親」「なんでも知ってる賢い先生」でありながら、クライエントと一緒に、ときには代わりに「戸惑ったり怖がったり泣いたりわめいたりできる子ども」でもいられるか。

そして、それはいずれもセラピスト自身ではなく、クライエント自身の中にあるものだと認識できるか、だ。

この認識がないと、セラピストはまるで自分だけが偉いもの、分かったものになった気分になる。

こういうセラピストはすごく多い。

親の役割、先生の役割に酔いしれるだけで誰のセラピーなのかわからない状態を作り出してしまうのだ。

こういう場合、怒りを強く持ったクライエントならカウンセリングやセラピーは心地の悪いものだと認識して信用しなくなるだろう。

罪悪感を強く持ったクライエントならセラピスト側の高揚感を感じることで「役に立っている」と誤認し、それが心地よくもあるので、何度か通い続けはするが本当の自分を出せないことが続き、最後はそれが怒りにかわってしまうだろう。

 

セラピーとは面白いものである。

一般的には「セラピスト」と「クライエント」と呼ばれる二人が真っ暗闇の中にポンと置かれる。

今、感じる温かさは私の体温か?相手の体温か?

今、聞こえているのは相手の声か?私の声か?

それすらもあやふやになるほどの暗闇で二人は相手を通して、自分を見つけるのだ。

セラピストやクライエントという肩書きなんて、一度暗闇に入ってしまえば、なんの意味もない。

私はいろんなセラピーを受ける前にやっぱりこれも実際に体験していた。

彼こそが、私の最初のセラピストだったのだ。

暗い暗い、深い深い海の底でグラン・ブルーの主人公が見つけたものはなんだったのか。

10年以上の時を経て、私は映画の描こうとしていたものがおぼろげながら見えてきた気がする。

そして、不思議と今まで思い出しもしなかった映画の中に出てくるすんごい山盛りのパスタまでもが思い出されて、無性にパスタが食べたいのだ。

信じられないほど山盛りのボンゴレビアンコだったはず…と検索したら、出てきた。

っていうか、この人のパスタの方が映画の中より美味しそうだけどね!

【映画の料理作ってみたらvol.13】『グラン・ブルー』のスパゲティ・アル・マーレ&白ワイン ガブ飲みレシピ | dmenu映画