Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録

さようなら、こんにちは

引き続き、私の感じてきた「通じなさ」について書いていきたい。

私は滅多に怒らない。いらいらすることや失礼だなと感じることはもちろんたくさんあるけれど。

怒らないのには理由がある。

相手がそのように行動したり、発言したりするのには必ず理由があるからだ。

理由は見ようとすれば、見えてくるし、見る力もついてくる。

心理虐待的育ちをしている人には大概、この力はある。

なんせ目の前の養育者の行動の理由が見えなければ、生きていけなかったからだ。

ただ、この見る力には段階がある。

 

見る力をただ使っているだけが第一段階。

見えている自分を特別に感じ、見えていない人をどこか見下したような雰囲気を漂わせる人が多い。

そう、少し前に書いた例の心理士のような、ね。

どんなに見えていても、見えている自分だけが正しいわけではないし、見えているのはあくまで自分の目を通した世界なのだという肝心のことが見えていない。

相手を深く見ることはできていても、自分という一元的な視点しかないのである。

 

相手には相手に見えている正しさがあり、それもまた、その人にとっては確かなことなのだなと感じられるようになると第二段階。

深く見るということと、いくつもの視点が持てることの両方によって、視野が広がる。

正しさが人の数だけあるということを知る。

多元的視点と広い視野。

この上も、そのまた上もあると私は思っている。

でも、私は知らない。

私はまだ二段階目でしかないから。

 

私は怒らないけれど、意見を言う時は言う。

正しさはいくつあってもよいのだけれど、不特定多数を傷つけたり、迷子にさせかねないような場合のそれは、やはりどんなに本人がそれを正しいと思っていても一元的に過ぎないからだ。

でも、やっぱり一元的な物の見方しかできない人は、私の意見を理解しない。

理解しないばかりか、馬鹿にしてきたり、攻撃的になったりする。

「通じなさ」の完成である。

 

私はずっとこういう世界に生きてきた。

第三段階目があるとしたら、この一段階と二段階の間に、もうひとつの橋渡しのような層を作れるようになることなんだろうかと一生懸命考えていた。

だから、表現方法、伝え方、話し方、例え方、アサーティブを勉強した。

しかしながら、手応えはゼロ。

それをひたすら繰り返して、絶望していたのだ。

 

そんな絶望を繰り返していたからこそ、心理発達についての具体的な臨床例を読みときながらの講義内容には驚いた。

臨床例の中の人は発達のステージが変化する萌芽があり、その段階で鬱になった。

ステージが変わり、鬱が軽快してきたら、ステージが違う人たち(それまでの人間関係)とまるで話が通じなくなった。

その後、中の人は悩みながら、休みながら、最終的には、なんと新たな人間関係を探しに行き、継続せねばならない関係にはある種の割り切りという適応をしていた。

 

見る力がある人の第三段階目は、この臨床例と同じ成り立ちをしているのではないだろうか。

それはつまり「通じなさ」と戦わないことなのではないだろうか。

なんとかしようとしないで、通じる人や通じないまでも、互いに不快にならないで済む人を探して、そこで過ごすことなのではないだろうか。

 

そんなことを引越しで荷物整理をしているときに思った。

少し気に入らなくなってしまった服をまだ着れる、高かったなどと無理に思って大切にする必要はないな、今の私の気分に合う服を自分に買ってあげるために捨てようという発想に至ったら、人間関係も同じ気がしたのだ。

私は、私に、本当に似合う人や、服をプレゼントしてあげてもいいんじゃないか?

無理をして、合わせたり、合わせられたりしないで済むぴったりのもの。

それがどこにあるかは、まだわからないけれど。

さようなら着たくない服。さようなら合わない人々。さようならさようなら。

こんにちは戦わない私。

さようなら名古屋。こんにちは東京。

明日は引っ越しです。

昨日は心理発達について学ぶ回のカウンセリングセミナーだった。

そこで私が感じる絶望感がなんなのかがわかった。

心理発達上のステージの違いなのだ。

社会では、身体や知能や経験のレベルを判断されることが多い。

そう判断されるので、私たちは自然と他者もそのような観点から見て、判断することが多い。

そのような観点から見たら「普通」だったり「優秀」な人々でも、心理発達上で「大人」になりきれているかといえば全く違う。

しかし、心理発達という観点は、心理学や精神医学を学ぼうとしない限り、あまり知られることはない。

だからこそ、私は私の感じる「通じなさ」がなんなのか、わからなかった。

私にはわかるけれど彼/彼女らにはわからないものはなんなのかもわからなかった。

だから、絶望していたのだ。

 

人は知能指数が20違うと会話にならないという。

しかし、心理発達のステージは1段階違うだけで本当に話が通じない。

話が通じないというより、相手がまるでこちらのことは何も見えてないような体感となる。

心理発達は、それまでの自分を内包しながらステージが上がって行くが、内包の過程でそれまでの自分を一度、崩壊させることになる。

いもむしはさなぎになって、蝶になる。

さなぎの中身はどろどろの液状だ。

それと同じなのだ。

蝶が象徴学において「再生」「生まれ変わり」を意味する理由がよくわかる。

そして、ギリシャ語の蝶をあらわす単語はプシュケーで、こころ、魂と同じ言葉というのも本当に興味深い。

こころは脱皮ではないのだ。破壊と再生なのだ。

 

私はさみしい。私はずっと心理的には孤独であった。

形骸的には決してそう見えないからこそ、その気持ちを素直に言えば、わがままだ、贅沢だ、感謝が足りないなどと言われてきた。

でも、私は間違っていなかった。

私の両親は大人ではなかった。

それが当たり前だった私は、そういう異常事態を脳では異常とは判断できず、成長してからもなお、そのような人たちと断絶を感じながら過ごすのが人生なのであると思うことが常態化していたのだ。

しかし、脳では異常を判断できずとも、身体は異常をずっと昔から感じていたらしい。

異常事態、危機的事態だということを強い緊張というかたちで一生懸命、私に知覚させようとしていたのだ。

右脳が左脳にバトンを渡そうとしていたのだ。

それが昨日、かちりと歯車が合うようにわかった。

 

大島弓子の漫画に「夏の夜の獏」というのがある。

実年齢ではなく、精神年齢で人の姿が見える話だ。

私の生きている世界はこれだった。

昔はあー、なんとなくわかるなあと思いながら読んでいただけだったが、読み直したら泣いてしまった。

主人公は最後に泣く。

僕は本当は8歳なのだから泣いたっていいのだと思いながら。

ももっと早くに泣けていたら、どんなによかっただろう。

私は歳をとりすぎてしまった。

私の悪夢のような人生を、獏が食べてくれたらどれだけよいか。

マッチ売りの少女

「無限振子」という精神科医であり、カナータイプの自閉症であるという方の本を読んだ。

素朴な感想をいえば、わかるところと全然わからないところがあるなと思った。

自閉症を生きた少女COCORA」もそうなのだが、この二人には解離様の症状がある。

そして、心的外傷的な育ちも感じられる。

しかし、ふたりの学校でのいじめのあたりの話は読んでも、私には全く理解が出来ないのである。

もちろん、とても大変だったんだなあとは思うのだが、クローズアップ、フォーカスして書かれすぎているというか、ひどく一方的な印象で書いてある気がしてならない。

これこそが、ある意味で自閉症スペクトラムASDの特徴なのだと思う。

一言でいえば、自閉症スペクトラムASDの人の解離とは、人(定型発達者)の気持ちがわからなすぎることから始まるのだ。

彼女たちは失敗した、嫌われた、いじめられたということを通して、独特の対人関係スキルを身につけて育つ。

しかしながら、そのスキルは、両者ともに本や漫画や実際の人などの表面的な部分を取り込んだ「型」にすぎない。

考え、思いまでは取り込めていないから「型」。

その「型」が仮面、ペルソナ、ロボットのようになり、彼女たちの中身や実際とはかけ離れてしまうために身体や心が追いつかなくなり、解離的な様相となっていく。

 

一方で、定型発達者の解離は「人の気持ちがわかりすぎること」から始まる。

そこには考えや思いがあるため「型」というよりはやっぱり「人格」っぽくなってゆくのだろう。

このことから考えると、定型発達者で解離している人のいじめられの経験率は私はそこまで多い比率ではないのではないかと思う。

子どもというのは「異質」を感じ取るといじめることはあるので、軽微なものは思い当たることはあるかもしれないが、私自身は同級生にいじめられたことはない。

同級生たちの考えていることはだいたいわかるため、対策として、先手として、こちらがどのように振る舞えばよいかもだいたいわかり、いじめにならなかったのだ。

 

定型発達と非定型発達は脳の基本的なOSが違うのだという例えがよくある。

解離という事象を通して、このOSの違いのヒントはまた少し増えているのかもしれない。

いまはMacOSでWindowsOSを動かせるが、別物として捉えられていたときもある。

時代が進んで、MacWindowsが動かせるようになったように、定型発達非定型発達相互の脳のOSの理解も進み、両者ともに生きやすい世界に近づいていくようになるといいと思う。

 

ところで、定型発達で解離している場合は、被虐率が高いが、非定型発達で解離している場合は被虐率はそれほど高くないと「無限振子」の著者のセラピーをしているセラピストが書いていた。

定型発達の場合、親の気持ちがわかるぶん、愛着の傷が深くなる。

非定型発達の場合は、親を含め、誰の気持ちもわからないので、愛着の傷よりも、生きる過程でのわからないことの連続で起きる傷の方が深くなる。

とはいえ、解離の症状自体にはそれほど違いはないというのが私の印象だとある。

「解離の舞台」という本においては、その違いが指摘されていたが、自閉症ではない私にも本に書いてあるような解離の特徴があるのだ。

(本の言葉を借りれば離隔と拡散が自閉型の解離の特徴とあるが、私はこのどちらもある)

上に上げた本を読んでもよく理解できるのは解離の症状を書いているあたりだ。

解離の感じ方の違いはその人に備わった感覚器がハイレゾとローレゾの間のスペクトラムでどこに位置するかだけの違いでしかないと私は思う。

 

自閉症スペクトラムの解離と定型発達の解離の一番の違いは治療なのだろう。

定型発達の場合は居場所の確保や他者信頼の経験になる。

更にトラウマの治療を併せて行って、うまくいけば、日常がそこまで苦でもなくなるのだろう。

また、そのような治療は一時的(もちろんある程度の期間は必要だが)でよくなっていく人が文献や症例をみると多いようだ。

一方で自閉症スペクトラムの場合は日常で具体的にケア、通訳をしてくれる人、理解者のようなもの=治療のようなところがあり、それは一時的ではなく、継続的に必要なもののように見受けられる。

無限振子の著者はその点でとても恵まれているようだが、COCORAの著者はブログを見る限り、そのような人には出会っていないようだ。

自閉症スペクトラム障害解離性障害とひとくちに言っても、その「障害」の持つ意味の重さ、ハードルの高さは人それぞれ違うらしい。

 

私の場合はそのような文脈でいえば「障害」とは言いにくいレベルなのかもしれない。

けれども、ちっとも楽観的に思えない。

私はもう一生このままなのではないかとどうしても思ってしまうのだ。

いくら本を読んでも、勉強しても、分析しても、なるほどと思うことがあっても、それだけだ。

私はそれらの知識をただただ吸い込んでゆくブラックホールのようだなと思う。

心の中は驚くほど空虚なままだ。

私は本当は勉強も分析もしたくないのだ。

しないで済むことほどに幸せなことはないように思う。

私の勉強も分析も不安だから起きていることにすぎず、身体はとても疲れているのが最近よくわかる。

このごろ、鬱的な傾向がとても強い。鬱なのかな。単に花粉症で調子が悪いのかな。

インスタグラムを見ていたら、札幌の友人があげていた写真があった。

札幌はまた大雪が降ったようだった。

雪をかいてもかいても、降り止まぬ雪。季節はずっと冬のまま。

私はマッチ売りの少女のように雪のなかで死ぬ。そんなイメージが消えない。