Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録

狙撃手 2

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私は何故、私に見えるものを射抜きたいのか。

射抜かねばならないと思って必死なのか。

その一方で、私は何故、それは干渉ではないか、と煩悶し、どこかでなにかが間違っているのではないか、と悩んでいるのか。

射抜きたいというのは、決してあちらのせいではなく、私の中に勝手にある気持ちである。

見えているなら、近付いていって、ひょいと乗ってみたり、話しかけたりもできるかもしれない。

ナウシカが荒ぶる王蟲をとめるのに似たようなこともできるかもしれない。

しかし、何故、そのようなことをせずに、私はわざわざ遠くから、一発で仕留めようとするのか。

それは、私の恐怖と怒りから来ているのではないか。

その恐怖と怒りを私は、私に見えるものに投影していただけではないか。

なにかに対して、私は近付くことができないほどに恐れ、死に追いやりたいほどに怒っているだけなのではないか。

だから遠くから射抜かねばならないと思い込んでいたのではないか。

 

近付けないほどに怖い。

怖いからこそ、その対象に怒りを向け、確実に死に至らしめるために狙撃の精度を上げる必要があった。

あらゆる情報を集め、的確に、鮮やかに、一発で急所を狙おうとするということはそういうことだ。

なぜ一発かの理由は簡単で、私には反撃に耐えるだけの体力も、いざとなったときの逃げ足の早さもないためだ。

そもそも、私は、その反撃に対して、闘争も逃走もできない個体だからこそ、麻痺とフリーズで解離してきたくらいなのだから。

つまり、私はある程度の遠さ、距離がないと、恐怖のあまり、自分を保てないのだ。

それほどまでに私が怖いものはなんだ。

その怖さのあまり、強い怒りを感じるほどのもの。

 

私は見えない世界だけではなく、現実でも近さが怖い。

誰も触るな、近付くな、と常にぴりぴりしている。

誰かが近付く気配だけでも、文字どおり、身体が凍りつくのがわかる。

なんでこんなことになってしまったのか、と当初はよく思ったものだ。

しかし、こんなことになってしまったわけではなく、ずっとこんなだったことに自分でも気が付いていなかっただけなんだと思い至ったとき、私のそれまでの世界は音もなく、崩れ去った。

私にある接触恐怖は決して"接触そのもの"が恐怖なのではない。

赤ちゃんや子供はだっこもできるし、足元にじゃれつかれても平気だ。

猫や犬を見ると、必ず自分から近付いて行ってしまうし、あわよくば、なでなでしたい!と鼻息を荒くして、思う。

彼に触れられたときの感覚、彼といるとそれまでにないほど、楽な感じがしたこと。

それが契機となって現れた接触恐怖にみえたものは、私に元からあった"大人恐怖"なのだ。

 

大人のくせに意味不明の論理を使い、自分のことしか考えない。

大人のくせに無用に人を傷つける。

大人のくせに全体を見渡せない。

私はそんな大人に恐怖しながら、そんな大人に囲まれて暮らしていた。

私の親のような大人に。

だから注意深く見て、急所を常ににらみつけながら、何かあったら素早く反撃できるよう、遠く、適当に、つきあってきたわけだ。

私にある世界の遠さとはこの大人恐怖からくる、諦めなのである。

 

私のアンテナの精度が彼に会ってから、異様とも言えるほど上がり、接触恐怖症レベルになったのは、彼という新たな大人の基準を知ったことで、彼と私の親を両極とした安心と不安のスペクトラムがはっきりできたせいだ。

それぞれのエッセンスを嗅ぎ分けることが可能になったから、より正確な位置確認ができるようになったのだろう。

だから、私はいつも、なんでこんなことに、彼に出会わなければ、と全てを彼のせいにしたがる気持ちが定期的にむくむくと出てきてしまっていた。

しかし、いま、全ては彼のせいではなかったとはっきりわかった。

そして、同時に何故、私がここまで彼にこだわるのか、ということも。

私は、私の親とよく似た、彼を悩ませる彼の親を、私の親の代わりにどうにかしたいのだ。

彼をその悩みから助ける、彼の切なる願いを叶えるという名目で。

何故、彼の親かと言えば、私の親は無理だからだ。変わることがないのがわかりすぎるほどにわかる。

しかし、よく似ているけれど、彼の親には私の親とは違う点がある。

そこに私は希望を見ているのだ。

どうにかなるだけの見込みが見えているのだ。

だからこそ、どうにかしたくてたまらないのだ。

私は彼を襲う彼のなかの無力感という魔物から彼を守りたい。彼を助けたい。そして、そのことによって、私が助かりたい。

私はどうにもならない世界だけではないということを知りたい。

どうにかなる世界を見たい。

私が叶えられないことを彼に叶えて欲しい。

そして、彼ならできるという確信があるのだ。

根拠は私が会った中で最も強く、優しい人だからだ。ただそれだけが根拠なんてバカみたいだ。でもそうとしか言えない。

私はものすごく自分勝手だ。しかも他力本願だ。そしてわがままだ。

でも、でも、でも、私はずっとそのために勉強をしてきたのではないか。

あちこちに移動するなにかを何度見失っても、混乱しても、いまだにうまく見立てられなくても。

私が見つめていたなにかは恐怖と怒りであり、絶望の中の希望でもあった。

射抜いてはいけない。射抜くのではない。

私が目指すべきは狙撃手ではなく、狙撃手のような視線を持つ人だ。

 

でも、私はちゃんと知っている。

私はデイドリーマーではないから。

私の願いはきっと叶わないと。

どう見ても叶う見込みは現時点でない。

着手できたら、どうにかできるという見込みはあっても、着手できないのだから。

しかし、叶わないとわかっていても、どうにかできるという見込みがあることは変わらない。

だから、私はやめられない。

私がやめるということは、もともとゼロに近い成功確率を私の手でゼロにすること。

私はゼロにはしたくない、そこに可能性がわずかでもある限り。

諦めが悪くてもいいのだ。

諦めることがいつだって美しく正しく生きやすい方法とは限らない。

人生は諦めた分だけ、鮮やかさを失い、まるで偽物のような世界が領土を拡大するだけ。

私はそれをよく知っている。

私の世界の遠さは、離人感は、諦めでできているんだもの。

私が目指すべきは狙撃手ではなく、狙撃手が決して諦めずに狙い続けるその姿勢なのだ。

狙撃手

私は相も変わらず、綾野剛が出ているドラマを見ている。

そして、あの目の造形に拍手をしたくなる。

なんでしょう、あの目。

彼によく似たあの目。

先週はHuluにある「S 最後の警官」というドラマを見ていた。

綾野剛は超優秀なSATの狙撃手である。

一瞬で確実に急所を射抜ける。つまり被疑者を殺せるわけである。

しかし、いまなら確実だという瞬間が何度あっても、上官からの命令がなければ、決して引き金を引くことはできない。

その緊張感とイライラ感。

私はそれにものすごく反応していた。

なんでだろう、私は上からの命令は絶対の団体にいたことはないのになあと不思議に思っていた。

その理由が今日になって、やっとわかった。

 

私は感じ取れるものが、物や何かの気配の人が心底うらやましい。

そのスキルを使った表現作業や創作活動は職業としても、趣味としても、おおむね楽しいだろう。

感じ取れるものが、誰かの隠された質のようなもの、その本人にも見えていないものなときは、ほんの少し伝えただけでも、その本人からあらぬ誤解や非難や恐怖を向けられる対象となってしまう。

その対象にならないようにするには、わかるけれども伝えない、射抜かないという手法しか持てなくなる。

それが一番、安全で無難なのだ。

 

私に感じ取れるものは、その人の心理的な急所だ。

心理的な急所がわかる。見える。間違いなく、そこを射抜くと、その人の中でうごめくものに文字どおり風穴が開く。

しかし、その衝撃に耐えられる人はとても少ないことを私は経験的に知っている。

私の上官は私の経験なのだ。

射抜きたい、いますぐ、引き金を引けばそれはあっという間。

そう思っても、私は引き金を引けない。

私は決して、誰かを傷つけたくはないし、ましてや殺したいなどは微塵も思っていない。

むしろ、うごめくなにかのもたらす不快感から誰かを解放したいだけなのに、現実は裏返ってゆくばかり。

 

深い霧の中でうごめく何かを注意深く見つめる。

ありふれたたくさんある小さな何かなら、私もそれほど躊躇せず、射抜く。

それらは大抵、感謝されたり、すごーいと驚かれるだけで済む。

大きく、そして、長く連なる、まるで日本むかし話のオープニングだかエンディングだかの雲に見え隠れする龍のようなそれの場合は急所が見えても、私は射抜かない。

見えているのに射抜けない。

どういうことが起こるかすらも、だいたいわかるからだ。

急所を射抜くのではなく、代わりにどこか他の部分に輪ゴムを指で弾いてぱちんとやる、というような伝え方を持ってしても、そこまで巨大な龍は私を威嚇するか、逃げていくかだ。

見えているものを射抜くことを許されず、威嚇されたり逃げられたりはとても悔しい。

これがSATの狙撃手のフラストレーションとよく似ているのだろう。

思うようには引き金を引けないフラストレーション。

射抜いたら死んでしまう急所ではなく、相手が「ん?なんだこれ?あらら?」くらいを感じるくらいで済む場所も見えたらいいのに。

そしたら、そこに狙いを合わせることができるのに。

誰にもわからない孤独な悩み。

孤独なフラストレーション。

どうしたらいいの。なぜ伝わらないの。なにを伝えたらいいの。

通じない、誰も見えない、私の見えているものが。

私は今日もうごめく龍を見つめる。

見立て

先日のカウンセリングは私が話すのではなく、先生が講師をしているカウンセリングセミナーの感想と質疑応答だった。

カウンセリングセミナーはカウンセリングの見立てをするために、類型をひとつずつ学びながら進んで行く。

見立てが間違っていたり、ずれていたりすると、悩みの解決の糸口や突破口が見つからない。

それほどまでに見立ては大事だ。

セミナーで学ぶたび、私は、私の見立てと彼の見立てを整理していくことになる。

より正確で実態に近いデッサンを描くように消しては描き、消しては描き。

セミナーでは大きな類型を学ぶが、その中には更に下位項目が存在する。

稀な下位項目になればなるほど、心の目を凝らして、深く潜らねば、見えてこない世界だ。

 

先生は私が異邦人だとすぐにわかったという。

異邦人が通常の心理発達を遂げられず、異邦人となるのは養育者が一定部分で心理発達が留まる成人学童期か発達障害や知的障害がある場合だ。

だから、私の親を先生は最初、知的境界域なのではないかと思っていたらしいが、私の親に対する印象はそれではなかった。

教科書を手に入れたときから、予習をして、私も考え込んだが、まとう気配、印象がどうしても合わないのだ、と私は先生に言った。

それは私が、私の親が知的障害だということを受け入れたくないからなのか、本当に違うのか、私にもだんだんわからなくなる。

私の両親への印象は少し前、世間をさわがせた小保方晴子さんと繋がる。

見えている、信じている世界が違う人。

そして、その世界になるように人々を読み、環境を操るサイコパス的な要素が感じられる人。

今回のセミナーでは知的障害、知的境界域の実例を交え、学んだが、私のその印象は正しかった。

私の両親はやはり知的障害群ではないのだ。

 

先生はわかってきたね、と言った。

先生は私のことを異邦人だけれど何かが違う、この独特さは解離のせいかと思われたが、それだけでもない、普通の異邦人にはないものがある、と感じていたらしい。

今まで見てきた中で私に近い印象のある人は、何人もいない、その中で近いのは統合失調症の親を持つ異邦人だったという。

統合失調症を簡単に言うのは難しいが、あえて、簡単に言うならば「違う世界」にいっているときと「現実の世界」にいるときがあり、その狭間で揺れる人たち、そんな感じだろうと私は思う。

違う世界よりの親、現実の世界よりの親を、知識もなく、前例もないままに、両方、目にする子供はどちらが正しいのか、自分の見間違いなのか、夢なのか、気のせいなのかを延々、情報を集め、考え、検証することになるわけである。

私の親は統合失調症ではないが、上記に書いたように小保方さんぽいのである。

STAP細胞のある世界に生きている小保方さんである。

現実にSTAP細胞はないのに。

そこをいくら指摘しても、ある世界に生きている人には全く通じない。

私は私の見えているものを疑って育った。

親が正しいのか?私が正しいのか?なんで?どうして?わからないの?みえないの?私のほうがおかしいの?

幼少期から正解がわからない世界に長くとどまりながら考えることで、私は知らず知らずのうちに不確実性への耐性ができていた。

不確実なものを不確実なまま、考え、見つめ続ける力だ。

それは、呼吸のできない水の中に長くいられるのと似ている。

通常なら、そんなに長くはいられない。

でも、私は生まれながらにほとんど水の中だったのだ。

そのせいで、普通より少し深くに潜れる。少し長く潜れる。

だから、多くの人にはみえない水の底にあるものが見えるときがある、多くの人が見えないなにかを拾って来れるときもある。

更に私には、お人形のように育てられた部分がある。

写真の中の私はいつも可愛い高級な子供服を着ている。

小学校に上がった時のランチョンマットも給食袋もお稽古バッグも母のお手製でどれもお揃いでマリメッコの生地だった。

急に家がなくなるから好きにしろといわれた履歴もありながら、小さい子がリカちゃん人形にかけたような愛着だが、かわいがられた履歴もあるのだ。

だから、私は愛着というものの気配を知っている、それは充分とはいえなかったけれど。

そこが異邦人と一線を画す点だ。

異邦人だが、完璧な異邦人ではない、そんな微妙な位置。

それが私にある独特さというわけだ。

そして、同じものが彼にもあると先生は言う。

彼の言動もやはり異邦人のそれとは少し違っていて、あなたたちは良く似ている、先生はそう言った。

 

先生は本当にすごい確率だと繰り返し言う。

彼も私も、異邦人だが、完璧な異邦人ではない。

そんな珍しい人たちが引き合うことがあるということが先生は不思議で仕方がないようだ。

非定型のなかでも更に非定型だね。

20年近い先生の臨床経験に基づいた皮膚感覚から来るのであろうその言葉は私には「彼の見立ては難しい」と響く。

私は、私だから、私のことを話せるが、私は彼ではない。彼は先生の前には現れない。

つまり、彼の見立ては私の記憶と印象次第なのだ。

2年前、彼が私にしてくれた話。

私はその話と彼の状況から、深い深い水の底に「何か」があるのを見た。

それで、私はいてもたってもいられなくなったのだと思う。

そこから、私は猛勉強をしたのだから。

無謀すぎる、と思うし、不気味すぎる、とも思う。

私が彼だったら確実に意味がわからない、怖すぎると思うだろう。

でも、私は「何か」を明らかにせねばならない、明らかにしたいのだ。

何故なのかわからない。

 

私は誰かに完全に狂ってるねといわれたら認めるしかない。

先生は私に彼の見立てをしっかりやろう、きっとそれでわかることがあるから、やるしかない、と言った。

私の狂い方に気圧されて、先生も狂っているのかな、そんなことを少し思った。

だって、こんなカウンセリング聞いたことないでしょう。

だって、私、意味わからなすぎでしょう。

でも、いまから、私は狂ってません!と胸を張って言える場所には戻れる気がしないのだ。

彼は最後に会ったとき、こう言った。

お前といる時の俺はおかしい。いつもと違う。なんでこうなるかわからない。怖い。気持ち悪い。わけがわからない。お前といるときの俺は虚像だ。

私も彼といて、おかしくなってしまったのかもしれない。

それまでと違う。狂った気がする。

他人のことなんてどうでもいいとすぐに何もかも手放し、諦めていた私が私の実像だったはずなのだ。

今でもその実像がやってくる。でも、それは本当に実像なのか?虚像の可能性はないのか?

虚像だった私は虚像の彼の話を通して、私と彼の実像を水の底で見たのではないか?

いや、それとも、やはりそれこそが虚像なのか?

曖昧な世界で私ができることはやっぱり見立てをしっかりすることしかないのかもしれない。

それができれば、一度解けてしまったクロスワードパズルは興味がなくなるように、私は元の世界に戻るのかもしれない。