Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録

八日目の蝉

蝉は生まれてから7日間で死ぬらしい。 
だから、8日目に生きている蝉はイレギュラーな存在である、という意味合いが含まれたタイトルの映画を見た。
宿命に翻弄された女性が失われた時間を取り戻す話である。
より正確さを期すならば「失われた」というより「失わなければ生きてはいけなかった」時間であり、それが自分の意思とはまるで別のところで動いて決定されていくから「運命」ではなく「宿命」に翻弄されているという感じだ。
全体としては、母とは、愛とは、を問う作品なのだが、それを愛着理論の観点から実によく描けていると思う。
そう、失われた時間とは愛着形成の時間なのである。
 
私には両親がいる。
間違いなく、二人の血は私の中にあるようだ。
しかしながら、私は両親を社会的には「両親である」と理解も認識もしているが、個人的には「両親である」という感覚がない。
小学生の頃から既に私の中で彼らは「同じクラスなら絶対に口もきかないし、友達にならない人」という評価だった。
反抗期などではなく、そこにはどうでもよさと諦めと仕方なさだけがあった。
ずっと、誕生日も父の日も母の日も便宜的なお祝いをしていたが、いまではそれすらしなくなった。
しなくなったら、連絡もなくなった。
父も母も「注目を集めたい」人なのだ。
だから「注目してくれない」とわかれば、興味対象は他に移動するだけ。
私は充分すぎるほどにその事実を知っているのである。
 
私は毒親とかアダルトチルドレンとか虐待とか、たくさんの本を読んだし、多くのブログも見てきた。
でも、なんていうんだろう、みんな不確かだったり、相応ではなかったりしたのだろうが「愛着」が見てとれる。
怒り、恨み、許せない許さない、関わりたくない、困った、助けたい、気づいて欲しい、全部全部、愛着由来の感情だ。
欲しい愛情が与えられたら、すんなりとそれらの感情は溶けて、許し合いに変わるんだろうという気すらする。
まあ、実際にそんなことは起きにくいこともよくわかるが。
私は、といえば、そういう感情がそもそもなく、ぽっかりとしている。
たくさんの厄介な話もどうでもよいからこそ、対処できてきたのだ。
私は親に愛着がないらしい。
 
しかし、私は八日目の蝉を見ながら泣いた。
両親を思い出すのではない。
旦那さんを思い出すのではない。
私は彼を思い出していた。
私の中の小さな私はやはり彼に愛着を抱いていたんだなと思った。
彼はもういない。本当にいたのかもよくわからない。
いつもそういう気持ちになるのだ。
私は夢を見ていたんじゃないか、彼は夢に出てきただけの人で実在しないんじゃないか。
そんな疑問が頭をもたげてくるたび、私は頭の中の強風に吹き飛ばされそうになるのを必死にこらえている。
何故こらえているのか、わからない。
でも、なんだか、もうすぐ吹き飛ばされてしまうんじゃないかと怯えてもいるのだ。
吹き飛ばされたっていいよ。
吹き飛ばされたほうが楽だよ。
吹き飛ばされちゃだめだよ。
吹き飛ばされようがされまいがどうでもいいよ。
数々の声がひとつのホールでぐわぐわと響き渡り、あちらでは号泣が、こちらでは大笑いが。
騒がしい。脳が騒がしい。
そして、私はどうしていいのかわからない。
一体、私は何日目の蝉なのだろう。
とうに蝉はいなくなって、すずむしが鳴いているというのに生き残ってしまったような気分だ。
いや、もしかして、もうとっくに死んでいるのか。