Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録

ゆらぎ

解離の研究をしている岡野憲一郎さんのブログを熟読している。

熟読すればするほど、DIDや解離性障害は真の意味で治るのだろうか、治す必要もあるのだろうかと考え込んでしまう。

解離の原因というのはよく語られる。
幼少期の連続的なトラウマや安心感のなさである。
しかし、これらがあっても解離に向かわない人もいる。
つまり、解離には原因だけではなく、条件もあるわけだ。
それは空想好きとか想像力豊かとか持って生まれた特性が関係しているようだ。
その特性により、ストレスとなる出来事に対し、脳の回路が「闘争/逃走」で反応するか、「フリーズ/麻痺」で反応するか、なのだ。
それが、解離かそうでないかの分岐ポイントである。
解離するということは、そのような反応をする脳の回路を持ち合わせているということなのだ。
これってなんだか単純に、右利きか、左利きか、のような話なのではないかと私は思ってしまう。
 
ストレスを解消するために人は様々な方法を取る。
しかも、みんな私はこの方法が一番好き!とかちゃんと知っていたりして、行動にうつす。
マッサージに行く、ひたすら寝る、食べたり飲んだりする、趣味に打ち込む、歌う、のんびり過ごす、旅行に行く、掃除をする、料理をするなど本当にたくさんの方法がある。
解消方法も様々なように、ストレスに直面したときに乗り切りやすい方法も十人十色なのだろうし、解離がある人たちは解離こそがベストな方法だったのかもしれない。
そこまで考えると、実際の生活で苦痛を感じなければ、解離が問題とされることはないはずである。
まあ、これが難しくて、大抵は転換されて身体の慢性的な不調や不眠やいろいろが引き起こされているけれど。
 
DIDや解離の「治療」は統合である。
特にたくさんのストレスに対処するために、たくさんの自分を作り出して記憶を切り離してきたDIDはそのストレスに再度向き合い、記憶を回収していくことが求められる。
ここで、再び解離の条件を思い出す必要がある。
そもそも解離しやすい脳の人が解離をするというのに、かつて解離したほどのストレスに解離せずに回収のためにまた向き合うことはかなり困難なこととなるのは容易に想像できることではないか?
本当にそれは必要なことなのか?
 
アーキタイプカードというユング心理学における元型をもとにアメリカの精神分析家の女性が作ったカードがある。
人には12の元型があり、みんな違う種類を持っている、というのが彼女の持論である。
私はそれに興味を持ち、日本語版がないので、自分でしぶしぶ翻訳し、私の12の元型を選んで、先生に説明した。
こういうときにこの元型が使われがち、この元型と元型の組み合わせが私の基本の思考回路、とか。
そして、私はこの12の元型の中心にいるのが小さい私だとも言った。
私はDIDほどに確かに独立した人格を持ち合わせてはいないため、DIDではなく解離性障害なのだが、不鮮明に分かれた私をアーキタイプカードで表したかったのだろうと思う。
私の中のイメージはいくつもある私(DIDにおいては人格)は本人を守るために召喚された人生を戦うための仲間、もしくはパワードスーツのようなもの。
それを使うということは、本人のなかでは、目の前のストレスに対し、最適化した結果な気がしている。
 
アダルトチルドレンや愛着問題に関わる精神疾患を持つ人はよくサバイバーと呼ばれる。
バイバーと人がいうとき、そこには被害者であるという暗黙の認識が含まれている。
無論、虐待(特に子供に対する性的虐待)は明らかに加害者がいるので、そこに対して被害者がうまれるのは当然だ。
しかし、加害者/被害者はあくまで虐待という物事をはさんだ上での人間関係を説明しているに過ぎない。
被害者であることと、被害を乗り切った方法は別の事象である。
その方法は本人の脳にとっては最善最速が選ばれているはずであり、それはサバイブするためではあったが、決して被害者だからではないのだ。
このブログは何年か続けていたアメブロから解離についてだけを分岐させたかたちとして始めたが、アメブロではアダルトチルドレンなどと書くとそれを検索して「アダルトチルドレンを克服」とかそんなブログを書いている人々に読者登録される。
克服という言葉に猛烈な違和感があったので、調べると、努力して困難にうちかつこと、困難をのりこえることと辞書にあった。
そもそも、困難があったから、生きづらさや精神疾患を抱えてしまったというのに、その生きづらさを克服しましょうなどと言うのは、まるで骨折した人に歩きましょうというようなものだ。
言葉におけるセカンドレイプも甚だしいし、私は私の解離を克服すべきものとは露ほども思わない。
むしろ、ぎゅっと抱きしめて、手をつないで共に歩いてゆくようなものの類に思う。
打ち勝つ、乗り越えるなんていう発想は過去の自分を困難に負けた弱い被害者と認めなさいというようなものだ。
私は強かったし、頑張ったのだから馬鹿にしないでほしい。
日本語の繊細さもわからぬ人の読者登録は削除に限る。
 
話が珍しく逸れてしまった。
本題に戻ると、最近では「統合」ではなく「共存」という治療が探られているようだが、納得だ。
ただ、その場合、どのようにして身体に転換された症状を取り除くかというのは、これまたとても難しい問題といえる。
私の頭の痛さと、頭の中の騒がしさが市販の頭痛薬で治るのかといえば治らないからである。
そして、私の場合は「共存」を選びたいのだが、そうすると、私の本体の小さい私が隠れてしまうのである。
これを書いている私は召喚されたほう、パワードスーツのほうだ。
昨日の文はどちらが書いたのだろう。
もちろん文体はさして変わらない、人格が違うわけではないから。
でも、丹念にみてゆくと、どちらが優勢だったかがわかるときもあれば、書きながら自在にスイッチが切り替わっているようなときもあるように思う。
私の文がなんだか少し変わった感じがするのはそのせいなのかもしれない。
この「ゆらぎ」をどう取り扱うか、が私の今の課題なのだろうし、私に限らない解離を持つ人やDIDの人も同じなのだろう。
ついでにいえば、未解離であり、PTSD様のフラッシュバックが無意識に引き起こされているアダルトチルドレンの人も、まさにそのフラッシュバックが「ゆらぎ」のひとつであり、現実を難しくするものなわけだから、同じなのだろう。