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Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録 解離性障害とともに

書くということ

はっきりとわかる症状として、離人感があった私は、離人感と関連が深い病気として、解離性障害やDIDについての知識はもちろんあった。

調べていくうちに行き着くからだ。
しかし、解離性障害で調べると出てくるのはDIDについての記述が多く、人格がたくさんあるってこと自体が不思議だなあ、私は違うなあと即座に判断していた。
DIDとして、ブログを書いている人たちやユーチューブで検索して出てくる番組に出演している人の多くは自傷していたり、たくさんの薬を飲んでいたり、生活が破綻気味だったり、とにかく大変そうだった。
これも私は違うなあと思わせる要因のひとつだった。
 
こういうことを書くと、いろいろ問題にされてしまう気がするが、私の感想として素直に書くならば「本来は、なんでこんなことになっているのかという原因を知った先に、解決策を見出したかっただろうはずなのに、原因を知ったことで、その原因に依存してしまい、ロストコントロールとなってしまった」というように見える人が多すぎたのだ。
アダルトチルドレンや愛着形成由来の不安障害や精神疾患を抱えている人の多くは生きづらいので、みんな何故こんなことに、と思うらしい。
そして、その答えとして簡単に浮かび上がることのひとつが機能不全家族だったりトラウマになったことがあるという事実だ。
ここで気をつけないといけないのは、その事実に自分が影響を受けているのは間違いのないことだが、その事実こそが自分ではないという点だ。
誰かを加害者にするということは自分が被害者になるということ。
でも、生まれたばかりの赤ちゃんに悪い赤ちゃんはいない。
これは、人には悪い部分があっても悪くなる理由があっただけということを指す。
それがいろいろな出来事として現れただけである。
出来事があるということは立場や役割があるということだ。
その立場や役割は残念ながら自分では選べなかったし、容赦なくやってきた致し方ないことであることがはるかに多い。
それでも、やはりその立場や役割は、自分ではない。
本来の自分とは別物だ。
あくまでそのときの立場や役割に過ぎなかったはずだ。
ここに気付かないと、その立場や役割に延々と依存することになる。
悲しいアイデンティティのような物になってしまうのだ。
 
私が自分が離人感だけではないのではないか、と気付くきっかけになったのは「魔法の娘」という本である。
女性の大学教授が自身のことを書いた本だ。
翻訳も上手なせいか、とても読みやすく、そして「解離している人の生活」が当人により、克明に書かれている。
だからこそ、私もこれなのではないか、と思い至ったのだ。
DIDの人のブログの多くは「つらい」とか「知らないものが買ってあったから別人格が出てたみたい」とか単純な事実や主観しか書かれていないのだが、それとは違い、この本は事実、主観に客観的な分析と推論と確認を加えて文章化されている。
やはり大学教授になるくらいだから、もともと優秀な女性なのだとは思うが、この客観的な分析ができることそれ自体が、彼女がロストコントロールに陥っていない証であり、私はそこに一番の感銘を受けた。
原因に依存しない生き方のお手本だと感じたのだ。
 
私はこの1年ほど、ものすごい勢いで心理学を勉強した。
勉強すると、いろいろな心理学があることを知った。
私はどれからも学ぶことがあった。
アドラーの「全ての行動には目的がある、原因を探り、結果を判断するのではなく、目的を読み解き、そこに寄り添う」というスタンスはなんて優しいのだろうなあと思った。
フランクルは「人生が人に問いを発してきている、人間は人生の意味を問い求める必要はない、人は人生から問い求められる者であって、人生に答えなくてはいけない」という。
人生と人との関係を通常の感覚とは真逆に捉え、見出していくスタンスは強さや希望を感じさせた。
ユングには言うまでもなく、舌をまくような直観力の高さを感じる。
これらの力を総合すると、魔法の娘を書いた女性のようなプロセスになるのかなあと思う。
心理学は突き詰めてゆくと、人間として生きるための生き方の指標を示すものなのかもしれない。
 
結果的に、私はDIDではなかったが、それに限りなく近い位置にいる。
解離やDIDの人の多くに離人感があるようだが、離人感が客観性を育てるかといえば、必ずしもそうではないようだ。
客観力は、全くの個人差があるらしい。
そして、私には僅かにせよ、その力が備わっているらしい。
私は、私の人生にいつも問われていたし、私の人生はその答えを見つけ出せる能力を、経験を私に与えていたのではないかと思う。
アドラーフランクルの言葉を考えると、私がどこか自分に相応ではないと感じていた働かずとも暮らせる環境や彼との不貞を知っても別れる理由はないと言う伴侶は私の人生に必要なものだったのかもしれない。
もっと遡れば、意思の疎通すらままならぬ両親や引っ越しばかりの環境も。
本体の私の第一発見者である彼がいたことも。
いまブログを書いていることも、だ。
私は人生に問われていることに対し、私なりの答えを書かなければならないのかもしれないような、そんな気がしている。
そんなふうに思えるようになったのはfridayusaoのブログ〜丘の上からを読んでからだ。
彼女はとても文章がうまく、また料理もうまく、ブログには軽やかな日常も書かれ、コントロールを失っていない。
彼女のブログを見つけたときに、私は心強さを感じたし、素敵だなと思った。
グーグル検索は本当に素晴らしい。
欲しい情報や必要な情報を得るためのきっかけが一瞬で出てくる。
良い時代に生まれたなとつくづく思う。
「そんな時代にあなたは何故生まれたの」とこれまた人生は私に問いかける。
私は答える、私も書くことで誰かの何かのきっかけになりうるかもしれないからだ、と。