Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録

あの傘

ゆっくり、しかし、確実に、重く、粘度の高い液体の中に沈み込むような気分を少しでも紛らわせようとお風呂に入った。

涙が止まらなかった。涙はお風呂にいる時、勝手に出ることが多い。つつーっと定期的に頬を伝う。なんで涙が出るのか、原因はよくわからない。機嫌がいいときも悪いときもあまり関係ない。

バラの香りのする石けんを泡立てながら、突如として、ああ、私はお風呂に入りながら、いつも泣いていたなと初めて思い出した。

私は自分から塾へ行くと言った。小学校3年生のときだ。4年生から行き始めた。

結婚はしない、私は賢くなければならない。そう決意したのだ。

学校から帰ると、まずは宿題を済ませ、次に塾の宿題をする。そして、お弁当をつくる。スクランブルエッグをつくり、ウインナーや肉を適当な野菜と炒めたりした、おかずが足りないときは鍋にある味噌汁の中のじゃがいもだけを取り出して、バターをひいたフライパンで少し焼いた(結構おいしい)。

貧乏なわけではなかったはずなのだけれど、今はなんでそんなことしてたのかわからない。

塾から帰ると夜は22時近かった。それから、ひとりでお風呂に入る。

反省会をする。湯船にもぐって、あれはこうすればよかったよ、なんであの問題はいつも出来ないのかね、本当にばかなんじゃない、明日は嫌いな体育があるよ、また耐えなくちゃね。そんなことをひたすら思いながら、私は湯船の中で膝を抱え、自分の髪がゆらゆら揺れるのを見ている。

私はたぶん、つらかったのだろうと思う。でも、その一言を言う相手が私にはいなかったし、このつらさはいつまで続くのかわからぬことなのに、いま、つらいと言ってしまったら、なにかがなくなってしまう気がしていたようだ。

言えない代わりに涙が出た。湯船の中なら私の涙は溶けてなかったことになる。

お風呂から出る頃にはけろりとして、髪を乾かして、明日の授業を確認して忘れ物がないようにかばんに詰める。

しかし、私は行きたい学校には行けなかった。そもそも受験もさせてもらえなかった。

その頃、父と母はいつも通り、ごたごたと問題を抱えていて、私はなぜか厄介払いのように「寮生活」をすることをいつの間にか勝手に決められていた。

東京で勉強していた時には私は中の上くらいの成績しか取れなかったが、地方都市にある、幼稚園から大学院まであり、寮もある女子校の中学校の試験はとても簡単だった。

私はおそらく全科目満点だったと思う。結果は1番だった。

東京から来た子で、成績も1番で、寮生ということで、なぜか先生の全員が私を知っていて、寮の中でもそれは知れ渡っていて、有名人のようで、いつも緊張せざるを得なかった。

学校が始まって何日も経たない日、健康診断のために並んでいるときに私は突然目の前が真っ暗になった。気がついたら保健室だった。貧血になったらしい。

そんな風に始まったあの時期は本当にきつかった。いつもどこかに必ず誰かがいるということが私をパニックにさせた。部屋も2年生と3年生と一緒で、お風呂だって大きなお風呂で一人で入れない。洗濯も自分の仕事だ。私は完全に神経衰弱気味だったと思う。

まず不眠になった。朝の礼拝のときには本当に信じられないほどの睡魔が襲ってきた。眠い中に聞く讃美歌は妙に耳に残った。

傘を置きっぱなしにしたという理由で寮母に傘を奪われ、私は寮から学校まで、雨の日はいつも寮の同級生に傘に入れてもらった。制服のウールはなぜ濡れると独特な匂いを放つのだろう。私はあの匂いが大嫌いだ。

ある朝、定規を寮の自分の机の下に落としてしまった。まあ、今日は使わないからいいかとそのまま出かけたら「定規が落ちています」と寮母からのメモが部屋に貼られた。定規が私だけが使う机の下にあったとして、一体誰に迷惑がかかるのか、私は未だにわからない。

食事の準備係のときは、箸を、持つときに上になる方、口は付けない方でとん、とテーブルで揃えてから並べていたら、はしたないと言われた。何十人分もの箸を効率よく、美しく並べるのにとん、とすることの何がいけないのかわからない。

寮ではすっかり寮母に目を付けられ、私はだらしがない子、出来の悪い子になった。

私は眠れないけれど、目を閉じて眠る努力を毎晩していた。ある夜、同じ部屋の2年と3年は私が寝たと思っていたのだろう。二人で「この子ってなんなの笑」「鈍臭いし、成績いいとか言うけどむかつくよね、私、嫌い」「あはは、周子先輩きつい〜」と笑っていた。

成績は3番になり、みんなに今回は1番じゃないねと言われて、1学期が終わった。

あろう事か、私はくたくたすぎて、パジャマを干しっぱなしだったのを忘れて、夏休みに入った。いや違うんだ、確かに、私は帰宅前に乾燥室に確認に行った。私と同じパジャマがあったが、そのパジャマを使っている人が他にもいたので、私はすっかりその人のだなと思った。洗った記憶も干した記憶も、そのパジャマを何日前に着たのかの記憶もなかったからだ。夏休みが明けたら、そのことをこっぴどく寮母に怒られた。そして、私だけあまりに出来が悪いからとはっきり告げられ、同じ部屋の3年がとても優秀な人に変わっていた。同級生の寮の子のひとりには「なんだかおかしいよ、なんでそんなにだらしがないの、なさけないよ」と憤慨されながら言われてしまった。

その後、数日経たずに、私は深夜に尋常ならざる胃痛で病院に運ばれた。限界だった。本当に記憶が断続的でしたと思ったことをしてなかったりしていたが、いま思えば、あれは解離していたのではないかと思う。

なんかどうでもいいことを書いてしまったけれど、このように書いてみると、あの時から見たら、いまはとてもましなほうだな。

もう寮母は死んだだろう。なんであの人、あんなに私にだけつらくあたったんだろう。

そう、傘は返してもらえませんかと何度か言い続けたが、断られ続け、やっと返してもらえたのは、私が寮をやめるときだった。

信じ難いことだなと思う。理不尽にもほどがある。世の中にはいろんな人がいる、本当に。

あの赤い傘。持ち手のとこは焦げ茶色の本物の木だった。その触り心地がお気に入りだった。触りながら、返してもらえてよかったと私は思っていた。傘はほこりまみれだった。