Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録

少しづつ

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モーニングはなんだか飽きた。同じ店には行っていないけれど、はたとどうでもよくなってしまった。いまここで私と同じように食べている人たちは一体何者なんだろうかと思ったら、なんだかすうっと熱が冷めるようにもういいや、って思ってしまったのだった。スーツ姿の人、普段着の人、化粧をする人、机に突っ伏して寝てる人、新聞を読む人。たくさんの人がいる、たくさんの人がいて、私もその一人である、と思うと、まあ、みんなモーニングを食べれる程度のお金は財布にあって、つまりそこにはなにがしかの経済活動があるわけで、これだけの人がどうにかなる世の中なら、私もいろいろどうにかなるのかもしれないなって自然と思えて、どうでもよくなってしまったのだ。私はモーニングというサービスを通して、それを知りたかっただけなのかもしれない。

私の睡眠は全くどうにもなってないし、ありとあらゆる人間関係もどうにもなってないけれど、焦っても気を揉んでも不安になってもどうしようもないのだ。

そんなことを思いながら、ぽかぽか陽気の午前中を郵便局に行ったり、浅草をうろうろして過ごした。

帰ってきてから、お医者さんに薬について電話で問い合わせた。錠剤を半分にして飲んで、目が覚めたらまた半分を飲む、というのはどうだろうかと聞いたら、いいということだった。寝付きがいいということはそれだけでその薬は効いています、悪夢を見るとかすぐ目覚めるとかがあっても仕方がないのです、いきなりぴったりの薬を出すことは難しい、少しづつ調整していきましょう、ということだった。

少しづつ、か。少しづつ、だ。そんなことを思っていたら、猛烈に眠くなってきてしまって、寝た。今度は悪夢は見なかった。

私の生活はまたもやすっかり逆転だけれど、少しづつ、なのである。

 

離婚になりそうだ、ということで起こる全部を、自分で責任を取ろうとしなくていい、まず彼に話してみてもいいのではないか、と先日、人に言われたことが胸に引っかかり続けている。

よく眠れたので、そのことについて深く考えてみることにした。

私は彼にはもう連絡をしても意味がないし、返事もあるわけがないし、どうにもならないと決めつけている。というか、実際、連絡をしてみても、そうなる可能性がほとんどだから、私はまた不安定になるだろうし、いやだなという理由で、連絡をしたくなくて、連絡をすることから逃げているというのが事実だなあと思った。

人は責任の所在を明らかにしたがる。時には自分のせいではありませんと言いきれることに安心し、時には自分のせいですと言うことで物事を丸く納めることができたようにみえるからだ。

でも、よーく見ると、ひとつひとつの出来事には確かに小さな責任があるようにみえるが、そのひとつひとつの出来事はなにひとつとして別個なわけではなく、全ての出来事と関連して、そこに存在しているのがわかる。

それを「全て、私のせいです、離婚して、職種や職業や待遇なんて選んでられないけど、とにかく自立します、それで解決しますよね」というのは、できなくはないかもしれないし、なんというか、やり慣れてきたことなので一番面倒くさくはないように感じるけれども、やはりなにか全体の流れにたったひとりで反抗しているようにも感じられるし、それを私は究極の形に現実に映し出して、本当にそんなことしたいの?と自分に突きつけている気もする。

 

小さな私は彼を本当にひどい、と思いたくないのかもしれない。連絡をして、無視をされるとか、なにか傷つくようなことを言われたら、そう思わざるを得なくなるだろう。そして彼女は「全ては幻想であった」という事実を受け入れなければいけない。それは、またひとりぼっちになってしまうということと同義だと彼女は思っているに違いない。

でも、人はみんなひとりぼっちだ。それは自分だけではできることが限られている、ということ。逆に言えば、だからこそ、それぞれにできないことをしたり、されたりしながら、協力しあうことができる、ということ。

協力しあうときに大切なのは、ここからここまでは私がやるね、というそれぞれの責任だ。そして、それを担保するのは信頼だ。全部をひとりでやることが責任ではないし、それをするということは、そこには他者に一切の信頼がないことを意味する。

そこまで考えたときに、小さな私が本当にしたかったことは、誰かを信頼する、ということなのではないだろうかと思えてくる。

その誰か、は必ずしも彼でなくてはいけないということはないのかもしれない。旦那さんでなくてはいけないということもないのかもしれない。もちろん、彼らがふたりともその対象に含まれ続けたら素晴らしいけれど、違う人だって、むしろ、何人いたっていいのだ。

しかし、現実的にはいまの私は経済力がないから、離婚となれば、すぐに生活の問題がのしかかるし、それは他人を信頼しようとしなかろうと全く関係なくて、自分でどうにかするしかないでしょ、と結論を急いでいた私は考えてしまいがちだった。

もちろん、短期的には経済力というのは大きな問題で、それは事実なのだが、長期的には私がその経済力の維持を含め、出来ることを出来るようになるには、自分の出来ることには限界があると知り、そのときどうしたらいいかというのが大きな問題となる。それらは表裏一体というか、見事にメビウスの輪のような関係を作り出している。

私にもきっと出来ることはあるし、それはつまり、一人でもある程度の生活は出来るということだが、そのためには信頼を学ぶことが必要というわけだ。

信頼とは、少なくとも誰かと本音を話したり、情緒の読み取りをしあう安定した関係を築くことで生まれるらしい。それは具合が悪いときは看病というような「行動」でもあるだろうし、本当に必要なときは「金銭」というかたちに還元されるときもあるだろうし、いずれにせよ、それらはその人が大切だと思う「気持ち」が「かたち」になったものだ。

そのように、時々で目に見える「かたち」は変われども、安定した関係がある、ということだけで、私は、というか、誰しもが、エンパワーメントされるはずだし、されているのではないだろうか。

実際、私はカウンセリングの先生と、この2年近くよく話してきた人とは安定したコミュニケーションを取り続けることができていて、それは私をとても慰めることなのだ。

距離は遠くても、普段は全くやりとりしなくても、友達だと言える人もいるということはある種の信頼は確実にそこにあるのだ。

ただ、一定以上、近くなると、私は途端にそのコントロールが難しい傾向があるようだ。

 

養育者との中で生まれた感情が未完了だと、その養育者に抱いたような感情が多くの人間関係で繰り広げられる傾向にあるという。

それはオカルト的な話でもなんでもなく、完了させたいという無意識にある気持ちが似たような状況を選び取っているということらしい。

養育者とは近い間柄だ。だから、私には「信頼できない!!!怖い!!!」という状況が比較的、距離の近い人たちとの間でたくさん起こるのかもしれない。

先日、カウンセリングの先生は、私の心的外傷に似たような状況を引き起こさずに安定するためにはひとまず「人を選ぶ」ということだろうと言った。

でも、選ぶのはとても難しい。常に、選べるのは私だけではなく、相手も選べるのだから。

選ぶ、ではなく、開示してみる、なのかな。

開示してだめだったときは、モーニングの風景を思い出そう。人なんて、どうせたくさんいるのだ。

少しづつ、そして、気楽に、だ。

今日はこの前、安かったので買ってみたランチジャー?スープジャー?保温ジャー?正式名称がよくわからないけど、それを初めて使ってみた。

生のお米とスープやお湯をいれて何時間かおいておくだけで、おかゆになったりリゾット風のものになったりするみたいだが、ちょっと想像できなくて、まあ、だめならだめでいいかとやってみた。

結果、おいしいあつあつのリゾット的なものができていた。すごーい。たのしいー。

少しづつ、気楽にこのジャーともおつきあいしていきたい。