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Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録 解離性障害とともに

当事者ってだれ?

眠い日々が続いている。

昨夜は錠剤に親指の爪を立て、半分にして飲んだ。0時就寝、2時半頃起きた。うーん、とひとりごちて、ハーブティーともう半分の薬を飲んで、また寝る。6時前に目が覚める。モーニングはもういいや、と書いたわりにまた行ってみた。

その後、図書館へ。「解離」で蔵書検索をして、出てきた本を全てメモ。

棚まで行き、ぱらぱらと読んでみる。私は以前、彼の病気である社会不安障害、アルコール依存、ひいてはアダルトチルドレン関係の本を同じように探しては読んでいた。その中でびっくりしたのは、同じ内容を扱っていても、おもしろいものとまったくおもしろくないものがあるということだ。ただの記録と「それ、おまえの感想でしかないだろ…」といいたくなるような浅い洞察はものすごくつまらない。記録ベースであってもいいのだけれど、そこに当事者か治療者の深い洞察があるとぐっとおもしろくなる。(私は一体、何様なんだろう)

おもしろそうな方の本を9冊借りて、帰宅。図書館でもそうだったが、帰り道も目が開けていられないほどに眠いときがあって、困ったなあと思った。

薬のお陰で睡眠時間はよく稼げているし、昨夜などは夢も見ず、まるで灰色のポスターカラーでむらなく均一に塗られたような眠りだったのだが、これでもまだ睡眠が浅いのだろう。

 

借りて来た本のなかの1冊は野間俊一「身体の哲学」だ。

興味深かったので、一部、ところどころ略しながらだが、引用する。

解離症者の自分の症状に対する無関心さは自分の症状を報告する際の表現の仕方にも現れている。...彼らの語りそのものが、距離を置いて観察したりほかの人から見聞きしたりした事実を語るときのような「不確かさ」をともなっていて、自分が主体的に関与し自分自身が被った体験の語りにはなっていないことに、その理由の一端がある。このような解離症者を前にしたとき、治療者は独特の感覚に襲われる。リュムケは、統合失調症者に相対したときに治療者が感じる「プレコックス感」について、「面接する者自身の本能的対人接触が確かな手ごたえを失い、あやふやになる感覚」と記述し、加えて、「(面接者自身の)ナルシシズムが傷ついたために(面接者が)気を悪くする感じ」と説明している。...リュムケの表現に倣って解離症者に対する印象を記述すると、さしずめ「治療者のナルシシズムが置き去りにされた空虚な感覚」ということになろうか。

これはあくまで治療者目線の感覚、なのだと思うが、私はこれに似た感覚をごくごく普通の人たちにも抱かせてしまっているのかなあと思ったのだ。

旦那さんが突然先日のようなことを言い出したのも、まさにこれの延長線上のことなのだろうと思う。実は、私はそういうことを言われる直前まで、のんきにキキララグッズを旦那さんと一緒に探しまわって、一緒にご飯を食べていた。私は、収穫があってなによりである、今日はよい日だったと思っていたので、完全に寝耳に水状態だった。

旦那さん的にはそののんきさが「この人は自分の引き起こしたことでこのような生活になり、そこには少なくない金額がかかり、それは俺が苦労して稼いでいるお金であるということをわかっているのか?そのキキララグッズも安いけど、俺の苦労だぞ」と無意識的なのか、意識的なのかわからないが、感じたのだろうと思う。これはまさに一種の空虚感であると思う。

旦那さんにラインをして、そのことを確認してみると「当事者意識のなさは見れ隠れするよね」と返事が来た。まあ、ありがたいことに「解離はそういうものなんだと思うと何とも思わないんだけど」とも併記されていたが。

 

私の人生では幾度もこのような「突然、相手から何かを言い渡される事態」があり、私はそれが上記でもそうであったようにまるで予測が出来ず、のんきに構えて、普段通りな時に起こるので、とてもびっくりする。

そして、そこでは、みな一様に、いかに私がひとでなしで自分勝手で変人かを語る。私としてはまず、突然すぎるし、その一方的な言い分にびっくりなのと怖いのとで、その瞬間にその相手との継続した関係を諦める。またか、と。

私の中の空虚さに触れた時、人はそこで何を見るかと言えば、私ではなく、まさに置き去りにされたナルシシズムによる空虚さ、つまり自己の闇を見ているのではないか。

実際はその自己の闇に恐怖を感じているのだが、それが私にもたらされたように感じてしまうため、過剰な攻撃や排除を私にしてくるのではないか。

私には愛着による心的外傷もあるが、このことによる外傷のほうが遥かに重く、現在進行形で、塞がることがなく、いまだ血が流れている感じがする。

もちろん、当事者感覚のなさは指摘されれば、確かにそうなんですよね、と思う。ものすごく申し訳ないなとも思う。

でも、私は、それにずっと悩んで生きてきている。世界ははてしなく遠く、空気がものすごい薄い。

いまだって悩んでいるから、こんなに調べて、勉強しているのだ。

当事者意識はない。うん、実際、ない。だって私は、当事者じゃないし、って感覚しかない。

「彼を好きなのは私じゃねーし!」とぶちぎれたくなる気持ち2割、残りは「っていうか、当事者ってだれ?どういう意味?」とぽかーんとした気持ち8割。

ただ、当事者意識がないと言われると、不思議なことに「うん、ないよね」と冷静に思う私がいる一方で、そのことに深く傷ついている私もいるのだ。

そして、このことを理解はできても、共感できる人は限りなく少ないのだろうということも経験上、私は知っているのだ。まあ、正直な体感的には理解すらできない、が99%なんだけどね。

だからこそ、私の人への信頼のなさは奥深いのだろうと思う。

って思っている私も、当事者感覚がないんだよ。そうなんだろうなーって感じ。

それゆえ、ここまで分析ができているのかもしれないけど…分析結果ではなく、私は解が欲しい。どうしたらいいのか、真剣に、切実に知りたい。

 

はあ、もう寝る時間だ。毎日、ちゃんと寝ようとすると、24時間って短いんだなって思う。

あまり寝ていないときは本を読む時間も考える時間も充分に確保できたけれど、ちゃんと寝るようにすると、なかなかうまくいかない。

まともに働いていない私ですら、あわあわしちゃうのに、フルタイムで働いている人だったら、きっとほとんど何も考えられないだろうな。

考えていないのではなく、考える時間がないのだ。

それが幸せなのか、不幸せなのか、は個人差があるだろうけど、大概の場合は幸せなのかもしれないなと見ててなんとなく思う。