Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録

眠い

最近は薬は全く飲まなくなったのに、ものすごく眠くて、一日寝てていいよと言われたらそうですか、ありがとうございますと言わんばかりに眠い。

私の睡眠の振り子はものすごく動きが遅いのかもしれない。

思い返せば、不眠と過眠は確かに次の季節のようにいつの間にかやってきては交代するのだ。

過眠に替わると、私は脳の中に急にぴったりと蓋がされたような気がする。

火にかけたやかんから沸騰しているお湯が蒸気になって、空気中に拡散するように言葉が出てくるのは大抵眠れないときだ。

いまは、そのやかんに蓋がされていて、蒸気は蓋についてすぐに水滴となり、水面にぽとりと戻っていく。

言葉がうまく像を結ばない。

そして、私はただ街を歩いていても、買い物をしていても、秋晴れをベランダから見ていても泣きだしそうになるのをこらえている。

表面張力でグラスの縁から盛り上がってもなんとかこぼれていないだけ、みたいな感覚がある。

私は内部ではたぶん、つらい、さみしい、かなしいといわれる類いのような気持ちを感じている。

蓋や表面張力によって、こちら側には来ないだけで目の前に在り続けている。

1年半前くらいに違うブログにこの感覚について書いていた文がある。

今日は言葉が浮かばないので、これをコピペして終わり。

 

 

さびしさは鳴る、という素晴らしい書き出しの小説がある。

ぐっと引き込まれる書き出しだ。
しかし、私のさびしさは鳴らない。
向こう側の見えない大きな湖のようなそれは、ただただ、そこにある。
圧倒的に、厳然と、目の前に在り続けている。
 
それを私はなぜさびしさと呼んでいるんだろうか、ある人にはこれは全く違う名前のものなんじゃないだろうか、そう名付けているのは私だけなんじゃないだろうか、と思うときもある。
でも私はさびしいのだ。どうしたらよいのかわからないくらいに。
 
私をわがままだという人がいる。
私を贅沢だという人がいる。
私を世間知らずだという人がいる。
みんないろんなことをいう。
でも彼ら、彼女らが私の何を知るというのだろう。
私の目の前に在り続けるこれを見たことがあるのか?
目を逸らした瞬間に飲み込まれてしまいそうなこれを。
さびしさは鳴らない。鳴らずに、ただそこにある。