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Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録 解離性障害とともに

あやとり

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私は12月22日生まれだ。

多くの星占いではこの日は山羊座に分類されているし、私は自分がずっと山羊座だと思っていた。

山羊座の性格傾向を見てはあたっているかもねえと冗談抜きに思っていた。

地味、冷静、慎重、現実的、我慢強い。

そんな風に形容されることの多い山羊座ではなく、射手座だったとわかった時、私は軽いショックとめまいに似た感覚が起きた。

はたして、地味、冷静、慎重、現実的、我慢強い私とは一体、何者だったのだろう。

それは、そのようにしないと生きてはいけない私だったのではないかといまは思う。

日常的に行われている見えない糸/意図で人々がするあやとりを注意深く見て、間違わないようにしなくてはならないと思っていた。

決して勝つ必要はない、けれど、負けてはいけない、誤ってはいけない、切り抜けなければならない。

いまはそんな風に常に思っていたとはっきりと自覚するに至った。

大人になった私は私なりの「スマートに負けるという勝ち方」というものを掴んでいたと思う。

それは他人の見えない糸/意図を見切る技術を身につけることに成功し、私の糸/意図は見せないということだ。

それが全く崩壊したのが彼との出会いだった。

彼には私の糸/意図は全て見えていたのだ。

星座占い以上の大きなショックを私は受けた。

 

見えない物は世の中にたくさんある。

私は幽霊も見たことないし、UFOもないし、透視も予知もできない。

それらを「見える化」させるのは私の力では、とても難しいというか、無理だと思う。

しかし、私はあやとりの糸は色をつけられるのだと最近、友達から教えてもらっている気がしている。

先々週は数少ない友達のふたりと会った。

ひとりは小さな子ども二人と旦那さんを連れて、私の住む街へやってきた。

「私、すごくあなたに会いたかったんだ、だから嬉しかった、こどもたちもあの日は楽しかったって言ってるんだよ」とメールが来た。

もうひとりは一番新しい友達だ。ライブで隣り合ったのだ。

彼女は、普段は遠く遠く、日本で一番交通事故のない場所に住んでいる。事故がないというより、人が住んでいないんですよと彼女は言うけれど。

彼女も久々に会う私をやっぱり素敵だったと言い、すごく楽しかったとメールをくれた。今日はその彼女からプレゼントと手紙が届いた。

先週は短い電話の中で、名古屋にいっても距離なんてそんなに変わらないよ、大丈夫、と言う友達の声も聞いた。

 

いずれのやりとりでも、私はなんだか恥ずかしくて、くすぐったいような思いがしたし、なんか外国人みたいにストレートな人たちだなあ、不思議だなあと思ったけれど、安心している自分に気づくのだ。

私は本当に友達と呼べる人がほとんどいないと、彼と会って以降、気がついてしまって、人付き合いもほとんどやめてしまった。

彼のことを誰かに相談したくて、誰なら大丈夫かと、たくさん並ぶfacebookの友達リストやiPhoneのアドレス帳をみたが、相談したい人などひとりもいなかったからだ。

でも、その時期を抜け、残った関係、新しく出来た関係の人たちは糸にきれいに色をつけてくれる。

だから、私も同じように色をつけることができる。

色のついた糸でするあやとりは緊張の張りつめた勝負ではない、楽しみとしてのあやとりだ。

私にはそういうあやとりを知っている素敵な友達がいるのだな、と思った。

 

世界はひとつのように見えるけれど、いくつもの世界が並行して存在しているのかもしれない。

私は見えない糸でする勝負のようなあやとりの世界から、色のついた糸でする楽しみとしてのあやとりの世界へいつの間にかやってきてしまったみたいだ。

今のところはとても好きな人たちとのあやとりだけだからよいけれど、また一歩外へ出たら、見えない糸であやとりをしている人にも出くわすだろう。

でも、そんなときは、旅行のときのご飯みたいに、なんか微妙だったなあ、あっちのメニューにしとけばよかったか…とか思いながらも、その微妙さも楽しむくらいの気持ちでいきたいものだ。

全ては変わり続けるから、微妙でも、それはそれでそのときだけの楽しみでもあるのだ。

変わらないものはない、ということは残酷なようでもあり、素敵なことでもある。

それはみんな、葉っぱのフレディと変わらない大いなる循環の一部なのだということだからだ。