Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録

ありがとう

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私は隅田川の右岸に住んでいて、いつも右岸側のテラスから左岸の高速道路を見ていた。
あちらから見るこちらはどのようだろうと思いを馳せながら。
いつか見てみたいなあと夢のように思いながら。
昨夜はその高速道路から私の住む街を、よく散歩するテラスを眺めた。
そう、私は夢が叶ったのだ。

高速道路は私のよく知る街の手前で隅田川の右岸から左岸に川の上で曲がる。
そのダイナミックな作りはまるで何かのアトラクションのようだ。
高速はほどよく混んでいて、ゆっくりと進み、雨はやみ、とても素晴らしかった。
いつも見ている景色と反対側から見る景色はよく知っているのによく知らない、初めてだけれどわかる、そんな景色だ。
私はいつもあのあたりを歩いているのだと思いながら見やると、そこには見えない私が見える気がした。
そして、その瞬間、私は向こうからも見えない私を見ようとしていたのかもしれないなと思った。
あちら側の私とこちら側の私は同じ景色の中にいるのに、まるでスピードが違って、見えている高さと視界の広さも違って、それはなんだか、2年前の私を今の私が見ているのとよく似ているように感じられた。

ドライブのあとは、歩いて、一人ではいくことはない、かつて何度か行った店に行き、通りかかりながら気になっていた初めての店にも行き、私は私のこの街に住んでいた時間を改めて、なぞるようだった。
私はその時間のすべてを引越し前のいま、回収しているんだなと思った。
横にいる人は私がたくさん思い悩んだその時間を最もよく知る人だ。
その人はいつもアドバイスをするでもなく、適当にごまかすわけでもなく、ただ話を聞いてくれて、時には大笑いしてしまうようなくだらない話もたくさんしてくれて、私は本当にいつも助けられていた。

なんでもうまくできてるんだよ、とその人は言っていた。
世の中の人や物事はすべて組み合わせであって、それぞれは良いでも悪いでもない、違う視点から見たら違うものが見えるだけ、と。
私は高速から眺めた景色や、このような時間が持てたことや、今はもういない彼という人などを思い浮かべながら、その言葉を聞いて、本当にそうだなあと思った。
うまくいかないことも、大局的に見ればうまくできているというか、目には見えないもっと大きな循環や組み合わせの中にあって、そういう中で私たちは生きているのかもしれない。

私はドライブに連れて行ってくれたその人にいつも私の少し先を行っているみたい、とよく話していた。
その度にその人はいや、すごく近くにいると思うと言っていた。
あるとき、その人は普通の人が歩く道じゃなくて、なんかドブ川みたいなとこに自分がいる気がすると自嘲気味に言ったので、私はふざけて、私も毎日川沿いを散歩してるから確かに近くだねと笑った。
でもきっと、あの川沿いの高速道路にその人はいたんだろう。
とても楽しかったな。ご褒美みたいな時間だったな。
いつもありがとう。改めてありがとう。
いま見ても、昨日あの高速を通ったんだなあと思うとなんだか笑えてくるというか、不思議というか、そんな気分がする。