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Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録 解離性障害とともに

一致

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私はもう彼とは会うことはないのだろう。

彼は私が出会った人の中で最も不思議な人だった。

いろいろと不完全すぎるわりにどこか完成された魅力があり、そして、それは基本的には全くわからないように抑制されているが、ときたまはっきりと見える。

私は彼のその不思議なエネルギーのようなものを見るとき、感じたことのない感覚がした。

それは、私はこれをよく知っている、私はこの人を知っている、という感覚だった。

彼に会うたび、頭の奥のほうに何かがよぎる。

その何かが、何か、わからない。

わからないからこそ、私は彼に会いたくなるのだった。

会えば、いわゆる、異性として好きというわけではないんだよなあと冷静に思うのだが、頭の中をよぎるものを捕まえようとすればするほど、私はよく知っているエネルギーを持つ、しかし現実にはほとんど何も知らない彼を知ることにしか興味が湧かなくなるのだった。

 

そういった2年の結果、今の私がある。

彼のことや彼の病気のことを知ろうと勉強すればするほど、私の知らなかった私が現れ、そこにぎりぎりまで接近したら、もはや彼と私の区別はなくなり、いまではすっかり拡散してしまい、もう誰かのため、何かのためというような小さな話ではなくなって、ただただ勉強したいからしているという純粋さだけがあるようにすら感じられる。

頭の中をよぎったものの正体は結局はわからない。

解釈はいろいろなのだ。

心理学的に言えば、私は彼に自分自身を投影していてその影を見ていたとなるだろうし、スピリチュアル的に言えば、前世の記憶というようなところに収まるのだろうと思う。

 

私は彼に会わなくても、心理学、精神医学、脳神経学の中から解離やPTSDに関するあたりを勉強しているし、今後も勉強し続けるのだろう。

スピリチュアルもだいぶ情報を集め、実際にヒプノセラピーやら講座にも行ったが、私にはしっくりこなかった。

目に見えないことは常に理由をこじつけることができる危険を孕む。

私には霊的な能力がないので、こじつけかどうかを適切に判断するのが難しいし、なんか面倒くさいなと思ったせいもある。

もちろん、スピリチュアルにも学ぶべき部分や参考になることはあるが、私はデータを集めるのが好きなので実際のデータがたくさんある学問のほうが楽しい。

選択の理由はただそれだけ。

どちらが正しく、間違っているわけでもないし、単にそばとパスタならどっち、みたいな話だ。

そばもパスタも麺類に変わりはないように、心理学とスピリチュアルはどちらも目に見えない人間の深い意識、それは拡大解釈をしていけば、精神と肉体を繋ぐ「生」の意味ともいえるものを知ろうとする試みといえる。

「生」の意味、それはきっと魂と呼ぶものなのではないかと私は思う。

 

私は今でも彼を好き嫌いで言えば、好きなようだし、その強度は最初から今まで、一度も変わっていないらしい。

彼の実際の言動や思惑がどうであれ、私が見ている彼はもともと目に見えている方の彼じゃないから、さほど関係がないようなのである。

だから、いつか、どこかで、間接的にでも、彼の役に立つ可能性がわずかにでもあるのならば素晴らしいし、そんなことが全くなかったとしても、構わないのだ。

これこそ、勉強したいからしている証拠といえるのかもしれない。

 

ANP(apparent normal personality)という日常を遂行する理性的人格とEP(emotional personality)という感情的な人格を大抵の人が持っている。

それがはっきりと分かれすぎていると解離となる。

私のEPは彼をとても好きらしい。

ANPはそうでもないらしい。

ただ、どちらも勉強をするということには異議がないらしい。

これは、おそらく、私のなかでEPとANPが初めて意見の一致を見せた事柄になるのだろうと思う。

解離の治療は解離している人格の統合、共存という形を取るわけだが、私の場合は共存なのだろうか。

ANPは昔よりだいぶ弱くなり、EPがものすごい力を発揮しだしている感覚はある。

今後、どうなってゆくのかはまだわからない。

そして、この文を書いている私は一体誰なんだろう…自分でもよくわからない。

多分、2年前にこの景色を見ていた私とは違う私なんだろう。

このベランダから見る景色も見納めだ。