Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録

勉強は続く

毎日、本を読む。
いまは3冊読んでいる。
心的外傷と回復、トラウマ後 成長と回復、身体はトラウマを記憶する。
いずれもPTSD研究の専門家の先生たちの本だ。
PTSDや解離はここ10年ほどの間に、臨床心理学と、脳神経学/脳科学が繋がり、劇的に理解が進んでいる分野といっても過言ではない。
臨床心理の場において、見えない壁となっていた「治療の進まなさ」への突破口が開かれようとしている。
投薬、カウンセリング、認知行動療法などなど、従来の治療は症状を和らげはするが、それによって完治にいたることは少ない。
その理由が脳で起きていることからわかり、それがわかると、増えてきたのは身体からアプローチする治療法だ。
EMDR、SE、TFT、ローゼンメソッド、USPTなどなど。
ヨガや演劇、ダンスも治療法となりうるらしい。
ただ、副作用があるものもあるし、人によって効かないものもあるし、私から見るとうさんくさい…と感じるものもある。

 

トラウマを覚えているのは最も古い脳だ。
最も古い脳は脳幹部分、ここは自律神経を司る。
自律神経は生きるための体温調節のための発汗や呼吸、生命の危機的状況に対しての逃げる戦うなど人間の動物的な側面を支えている。
ボウルビィのいう愛着理論やハーマンのいう複雑性PTSDは幼いときの慢性的な危機的状況によって、脳幹がそれを強く記憶した結果を指している。
正確には脳幹は記憶器官ではないが、脳神経的ルートが出来上がったという点での記憶である。
脳幹が強くそれを記憶するとどうなるか。
危機を感じていたときと似たような状況を何かしらから感じるとフラッシュバック、もしくは解離となりやすくなる。
ひどい場合はずっとアラームが鳴り続けているような、そんな状態が引き起こる。
言わば、脳内の火災報知器が鳴りっぱなしなのだ。
不安障害やパニック障害のような体の震えや発汗や強い不安感として現れるタイプ、それによって何らかの依存が見られるタイプ、解離となるタイプとなる様々なようだが、これは持って生まれた資質や環境による違いのようだ。
ただ、解離は不安型、依存型のように、直接的に身体症状として現れにくい。
離人感が強い場合も人格を多数持ち合わせている場合も、本人の感知しない部分があるため、よくわからない身体症状として出る場合がある。
ハイジのクララが立てなかったのはそういうことらしい。

 

古い脳(動物的な脳)は新しい脳(理性的な脳)がいくら考え方を変えよう、行動を変えようとしても、うまくそれを認識できない。
ある意味、古い脳は太古からの生命の危機的状況を切り抜けるための情報が詰まっている部分だ。
そこが優先されてしまうからこそ、人類は生き延びているのである。
しかし、脳も私たちだが、身体もまた私たちである。
古い脳が身体に指令を送ることができるならば、身体から古い脳にアプローチもできるのではないか、というのが身体的な治療法の考え方の原点である。
脳科学の分野からも、臨床心理の分野からも徐々に裏付けが出てきているようだ。

しかし、このような流れになってから、まだ月日は浅いため、玉石混交状態なのも事実だ。
ただ、誰かから見て、石でも、また違う誰かから見れば、玉ということもあるので、私は何がいいとか悪いとか書くつもりはない。
そもそも生命の危機的状況に立つというのは「想定内から想定外」に放り出される経験である。
そんな想定外の世界から次の世界に行くのには、やはり想定外の何かによる可能性が高いのだ。
その想定外は人によって、きっと違うだろう。
なので、自分のフィーリングに合うもの、ぴんとくるもの、心地よいと思えるもの、無理がないものから、私は試していきたいと思うし、多くの人にそうであってほしいと願う。
ちなみに、精神psycheに対して、身体somaから働きかけるという意味合いでこの流れをソマティック心理学というらしい。
身体的に捉えるという意味では野間俊一も何冊か著作を出しており、私は2冊、目を通した。
愛着というよりはハイマートによるものだという意味合いが強く、個人から社会を見ているので、どちらかといえば、社会心理学的な印象を受けたが、良書と思われた。
ソマティック心理学として、著作を出しているのは久保隆司である。
こちらは未読、読みたいが、いかんせん、読み進めるのに時間がかかる本ばかりで、また私自身、読むのがつらいときもあり(いろいろなことが想起されて脳が固まってしまう感じ、パソコンでいろんなアプリやブラウザが次々に開かれてフリーズするのと一緒だと思う)、ゆっくりとした歩みだが、理解を深めていきたい。

 

来年は1月から、臨床心理の実例を学ぶ。
知識や理論だけが頭に入っていても、現実の人に起こる症状は多彩で、また訴えや悩みや問題も様々。
しかし、それらの状況はあくまで下流の出来事だ。
その上流をたどってゆくのがカウンセリング行為だと私は思う。
これは原因探しではなく、どのような川の流れかを確認するためである。
たどるのはカウンセラーとクライアントだ。どちらかだけでは成し得ない。
その人だけの人生の流れは誰のものであっても特別だ。
途中、氾濫が起きても、急流があっても、たどるのだ。
そうして行くなかで、その川をなかなか悪くないな、と許せる瞬間の訪れを待つ。
つらく、汗だくになりながらも、ふと見ると美しい景色が広がっていたことに気付き、それが自分なのだと知れるまで。
カウンセリングがその人に合うものだった場合、むやみな投薬はいらず、つらい症状を和らげる最低限のものだけで心的外傷体験の再現のようなときも、現実に大変なときも切り抜けられる。
私はそれを知っているから、カウンセリングの可能性を信じているのだろう。
そして、それを更に補強できる統合的な、身体的な治療法に興味があるのだろう。
今年同様、来年も勉強し続けたい。