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Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録 解離性障害とともに

さまざまな治療法

PTSDの身体的治療法についての本を読むのと日常をこなすだけで時間が過ぎてゆく。

TFT(タッピング)、ハコミセラピー、とけあい動作法、ローゼンメソッド、ヨガ/ダンス、芸術療法、EMDR

読みながら、どうもこの手の療法は大きく二分されるのだなとわかってきた。

受動体験か、能動体験か、だ。

ざっくり言えば、受動体験系は本人がそこにとりたてた何かを感じなくても作用するらしい。

能動体験系は本人が意識しようとしまいと、そこに"なにかが表現されていた"ことをセラピストの適切なフィードバックによって掬い上げられ、本人が気付いてゆく過程に作用があるらしい。

セラピストがいなくても、本人が勝手に気付いてゆく場合も多いようだ。

 

TFT(タッピング)やEMDRなどは受動体験である。

ダンスやヨガ、芸術療法は能動体験で、とけあい動作法などのマッサージ系は作業としては受動的なのだが、その中で能動体験が起きる。

個人的には、能動体験的なものの方が納得しやすい印象だった。

自分の身体の動き、心の動きを注意深く見守る体験を重ねると「自分」が見えてくるものだからである。

脳が与える信号によって身体は反応するわけだが、その身体の反応を脳は注意深く読み取り、また新たな信号を出す。

この、普段は完全にオートマチックな過程を、じっくりと繰り返し、意識的に追うことで、気付きがもたらされる。

これが能動的体験の本質なのだろうと思う。

 

いずれにせよ、なんらかの治療法がしっくりときた体験をした人にとっては、おそらく劇的な変化感が本人に生まれるのだろうと思う。

それがたとえ、事実上はプラシーボ効果であろうと、自己催眠であろうとよいのだ。

客観的事実ではなく、当人の主観的事実がなにより大事となる。

極端な話、占いや宗教は治療とはいえないが、それによって、主観的に救われた気がするなら、それはそれで、やはりその人の治療として最適だったということだ。

(理論上も、私の感覚的にも複雑性PTSDや解離のある人で強い信仰を持つ人や誰かを心から信じている人はいなさそうな気がするが)

 

明日はとけあい動作法を学んでくる。

本に書いてあることは難しくなく、読みながら自分でもできることだが、百聞は一見にしかず、体験してわかることもたくさんあるだろうと思ったのだ。

自閉症発達障害の子にも効果があり、各地で実践されているのと、発案者の人がこれで儲けようとしていないことが受けてみようかなと思える気にもさせた。

タッピング系は広めたさ故なのだろうと思いたいが、師弟制度というか資格商売になっている部分があり、TFTなどは最高レベルの資格を得るには1万ドルだというので、個人的にはそこに疑問を感じた。

誰かを救う可能性がある方法に対して、そんな価格設定をするのは詐欺師か金に目がくらんだ人かのどちらかでしかないと私は思ってしまったのだ。

本を読んでも、すぐに効く、当人が効かないと思っていても効く、たった一回で効くとさんざん煽るが、一部の人はそうではなく、何度か受ける必要があり、またその場合は複雑なTFTアルゴリズムが必要で、それができるのは上級セラピストだけとかなんとか回りくどい逃げ道を作りながら上手に宣伝に持っていく。

都合のよい実験結果だけをならべている可能性も否めず、またデータが古すぎて(PTSDや解離はここ10年ほどで脳科学的なデータとその検証が進んでいるが、TFTは20世紀のデータしかない)疑問点も多かった。

ただ、これだけで全くの詐欺、効果なしとは言い切れない。

嘘にも二種類あって、あからさまな嘘は笑いか軽蔑の対象になるが、一部に真実がある嘘はリアリティがあり、人を魅了するものなのだ。

また、なんらかの真実が含まれているからこそ広がりもするのである。

TFTも気になる人がいたら受けてみるといいだろうと思う。

真実を体感できるかできないかは、方法との相性だ。

真実はひとつだが、そこに行くにはたくさんの道があり、ある人には獣道であるものが、ある人には高速道路のようだったりする。

しかし、相性、フィーリングのようなものを感じにくい、なんにでも過度に合わせてしまう人々が治療を必要とする人でもあるというのが1番の厄介な問題である。

だから、保険の効かない、効果もイマイチ感じない治療法でも繰り返し受けたりしてしまい、ある種の商売がそこに成立する。

治療法を選ぶこと自体が能動体験、自分にとっての心地よさを探る自己治療であるということを心に掲げて、だめならあっさりと他に行く勇気と軽やかさも忘れずにいることが治療に臨む際に必要なことかもしれない。

むしろ、効果のない治療法に対して、怒りをあらわにするというくらいのほうが、より治療的なのかもしれないとすら私は思う。

最後の一文は本気半分、冗談半分。

いや、本気8割くらいかもな。