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Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録 解離性障害とともに

知的障害のある解離、ない解離についての私的考察

私が解離だと言われてから、真っ先にしたのは情報を集めることだった。

いわゆる闘病、解離の日常を書いたブログはたくさんあった。

しかし、その多くが、私にはちんぷんかんぷんだった。

まず、話の流れが初めて読む他者にわかるように、書かれていない。

一文が極端に短く、断片的であり、その断片が連なっていかないか、もしくは逆に異様に長く、その中で論点がずれ、何を言いたいのかわからない。

つるりと表面を滑るだけの日常を書いた小学校低学年の絵日記の文のようなものも多い。

本当に正直に書けば、解離ってこんな感じなのか…と相当へこんだ。

いや、あれは子供の人格が書く担当なのではないか?などと思い直してみても、やはりなかなかにへこむのであった。

私もあんな感じってことか…という感覚は治療せねばならないと私に強く思わせた。

 

しかし、検索を続ける中で読めるブログを見つけた。

確かな筆力とスティーブンミルハウザーを思わせる細やかな描写力のあるブログだった。

インパクトがあり、その余韻は残るが、後味はあっさりの小気味良い料理のような文章で、私はとてもほっとした。

やっぱりちゃんとした文章を書ける人もいるじゃん!と思ったのだ。

その書き主の視点は一定だった。

書いている人格が変わっていると書かれているときもやはりその一定さに揺らぎがなかった。

文章から受ける温度もいつも同じだ。

どの記事だけを読んでも、理解ができるし、まとまっていた。

 

私の文がどうかといえば、明らかに後者の側だろう。

筆力はともかく、おそらく、どのような人が読んでも、一応の意味は理解できる文だと私自身は認識している。

では、なぜ、このような差が出るのか。

それは知能指数の差なのだということが勉強のなかでわかってきた。

これは100か120か、つまり、普通か天才か、の差ではない。

軽度知的障害/知的境界域か普通か、なのである。

私が調べ始めの初期に見た解離の人たちのブログは一生懸命読んでも、要点も主張もよくわからず、読んでいるうちに文字が目に入らなくなるというか、意識が混濁するような、不思議な感覚になった。

なかには「〇〇という」の「いう」を全部「ゆう」と書いている30代もいた。

やはり異様な印象である。

全文が口語調で、音として脳内で読まれることを意識して書かれている文(お笑い芸人とかが書くような感じ)ならばよいのだが、そうではない。

あれらはほとんどが、まず最初に知的障害があり、併存障害として解離症状が出ている人たちのブログだったのだろうと思う。

 

軽度知的障害/知的境界域は一見は全く普通であるし、その多くが日常を送るには問題がないため、とても見過ごされやすいそうだ。

大学まで行く人も少なくないという。恋愛も、結婚もする。

しかし、恐らく、それは安定した家庭環境と周囲の理解があった場合は、なのであろう。

知的障害発達障害が先にある場合でも、解離や複雑性PTSDとなる原因は同じなのだ。

安心安全の場がないとき。

障害があるけれど、家族も本人もそれを知らない場合、家族は「なんでこの子はこんなこともできないの?」と思い、本人も「なんで私はこんなことすらできないの?」ということが子供のときから頻発する。

それを責め過ぎれば、それだけで受け取る側の子供にしたら「心理的虐待」に相当する孤立感であろう。

したくてもできない、でもなぜかわからない、それをうまく他者に伝えることができない、お母さんは怖くて気持ちをわかってくれない人、私は悪い子…

そんなふうにして、障害が土台にあるからこその最初のつまづきが一向に解決されぬまま、もつれながら膨らんで進むため、併存障害を作るのだろうということは想像に難くない。

 

知的障害が前提にある解離と、ない解離は私から見ると、明らかに別物である。

解離とは端的に言えば、肉体を持っている存在者としての自分と、観察する自分に分かれることだ。

観察する自分というのはきわめて冷静であり、状況や人をありとあらゆる情報から判断し、予測できるからこそ、肉体を持っている存在者としての自分の苦痛をやわらげることができる。

それゆえ、解離の人には普段から強い客観性が感じられる場合が多い。

しかし、障害が前提にある場合、この観察する自分がいないに等しく見える。

私から見ると、客観性が全くないのに、解離の症状だけがあるという不思議な状態なのである。

通常、解離の直接の引き金となることが多い家族などに対しての怒りは、解離している場合は解離しているだけに表出されないが、障害が前提にある場合はかなり強く表出していることが多い。

この表出は境界性人格障害自己愛性人格障害のように見える場合が多いので、更なる診断が積み重なって出てしまう場合もあるだろう。

しかし、そもそもは前提にある障害が見逃されているだけである。

このようなかたちで難治化している人は実際、かなり多いのではないかという感覚を私は抱く。

 

私が調べた範囲では、ネット上には、強い客観性を持つ解離の人のブログやHPは少ない。

客観性を持たない解離の人のブログやHPは多い。

解離はそもそも絶対数が多くはないようだが、その中でも知的障害のない解離は少ないのだろうか?

それとも、そのような人はインターネットをしないのだろうか?

そのあたりはよくわからない。

いま私は、解離について書かれた本の最新のものであろう「解離の舞台」を読んでいる。

もっと知識を得て、深めて、いきたい。