Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録

青の世界

Foggy Sunset

 私の頭の中にはいつも決まったイメージがある。

そこは誰もいない。私以外には、ただのひとりもいない。動物すらいない。

大抵は霧がかかっていて、真夜中と夜明けの中間のような時間帯の空。

針葉樹林がみえる。そして、大きな大きな湖。

湖は静まり返っていて、たまに風で表面が震える程度だ。

私はそれをじっとみつめている。

或いは気まぐれで木々の間を縫うように歩く。歩くというより、そこにはあまり重力がないのでふわりふわりと漂う感じが最も近い。

空気はひんやり、しっとりとしていて僅かに重い。

たまにすうっと上昇し、上空からその景色を眺める。

深い青の世界にミルク色の霧がきれい。

なんとなく、思いつきで、そこと似た場所はあるのだろうかと探してみることにした。

「湖 霧」と入力し、グーグルで画像検索をした。

ああ、あるんだ、実際にも似たような場所があるんだ。と思った。

この写真はフィンランドだという。フィンランドは湖の国なのだそうだ。

いつか行ってみたい。

 

彼に会ったときのことを私ははっきりと覚えている。

いや、はっきりなのか、脚色された偽物の記憶なのか、もうわからない。

彼は私の脳内のこの場所と同じ、深い青色をしているように私には思われた。

そして、私はその瞬間に飛行機や高層ビルのエレベーターが上昇するときのような、どこか気が遠くなるような、内臓が浮くような、脳が圧迫されるような、そんな感覚を感じながら「ああ、この人、私はこの人を知っている」と思った。

初対面なのにも関わらず、だ。

私は彼と会う前から「風変わり」という彼の話を店の人から聞いていた。

瞬時にそのせいだと思った。そう考えるのが当たり前だ。

しかし、違うなにかが脳裏をかすめ、私はそのしっぽをうまく掴めぬことをもどかしく思ってもいた。

現実には、みんなで店でくだらない話をしていただけなのだが。

 

いま私は「PTSDとトラウマの心理療法」という本を読んでいる。

そこには記憶の仕組みが説明されていた。

記憶というのは神経のなかの感覚系によって成り立っている。

身体の末梢および内部から集められた情報を大脳皮質まで伝達するのが感覚系らしい。

体験の総計、つまり、全ての記憶は感覚入力によって始まり、感覚入力は人が世界を知覚する諸感覚を通して行われ、諸感覚は内的、外的な環境の状態について脳に継続的な情報を提供している。

それらの動きが「記憶」なのだ。

「知っている」とは、当然「記憶」があった事をさす。

しかし、私はその時点では彼の記憶、彼との体験はなにひとつ持ち合わせてはいなかった。

情報も記憶とするなら「風変わり」ということは聞いていたので確かにその記憶の可能性はある。

ただ、私の中では、それは店の人が彼をそのようにみたという「店の人についての情報」であり、「彼についての情報」にはならない。

また、それだけの情報で誰かを「知っている」などと私は思った事は一度もない。

他人経由の僅かな情報など、私はそもそも簡単に信用しないひどいやつなのだ。

会ってから、間もなく、彼は私に信じられない事を次々に言うようになる。

私の脳の中が見えているかのように、思い浮かべた一字一句を私が口にする前に、彼が先に口にすることは幾度となくあり、私は混乱した。

そして、例の脳の中の場所で感じている事まで彼は言い当てるのだった。

お前の思っている事は全部お見通しなんだよ、と彼はさも簡単そうに言っていた。

誰もいないはずのこの場所、誰にも見えないはずのこの場所が、なぜか彼には見えていた。

 

あるとき、彼は社会不安障害という診断がされていると話してくれた。

私は彼のその病をどういう病気なのかしらと調べはじめた。

調べ始めの最初から、何かが違う、と思った。

その時点での私の臨床心理学への知識はゼロなのにもかかわらず。

違和感の正体を調べるうちにわかった事は、彼の幼少期の話や思うことを聞いた限り、彼は恐らくはC-PTSDなのだということだった。

そして、それがわかったとほぼ同時に、私は私が解離性障害だとわかった。

PTSDDSMでは「不安障害」のカテゴリーの中にある。

しかし、脳の仕組みとしては「不完全な解離」といえる。

驚く事に、彼と私の母親は同じことを小さな私たちに言い続けていた。

私と彼は、極めて近いトラウマを持っていることになる。

つまり、解離と不完全な解離とに分岐しただけで、脳の中の世界は極めて近接している可能性があり、私たちは、その近接した世界で出会ったのではないか。

この世ではない、3次元のこの場所ではない、脳に広がる解離の世界。

私は初対面で、彼と私が同じような種類の世界を抱えていることを私の五感のどこかで、いや、もしかしたら六感で、察知した結果として、脳がその世界の共通イメージとして、青色を喚起させたのではないか。

私が「知っている」と感じたものは彼ではなく、彼の脳の中の世界なのではないか。

その問いに答えてくれる人は誰もいない。

私は毎日、ひとりで世界を眺め続けている。それしかできないのだ。

ひたすらに眺め、誰のためともならないのを理解した上で記す。

もし、残りの寿命をはたくことで、どんな願いでも叶うなら、私は彼に会いたい。

好きなどというどこかのんきな言葉とはまるで種類の違う、私を強く支配する渇望とも呼べるほどのその願いの名を私は知らない。

会っても話したい事などない。したいこともない。なぜ会いたいのかすらわからない。

この引き裂かれそうな思いから逃げるように私は平然と静かに日常を送っている。

しかし、ひとたびその思いに捕まると、それがどこであっても、私の目からは自動的に涙が溢れる。

いまだってほら。

PTSDとトラウマの心理療法」を読みながら号泣する私を気狂いだと笑う人は笑えばいい。