Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録

マッチ売りの少女

「無限振子」という精神科医であり、カナータイプの自閉症であるという方の本を読んだ。

素朴な感想をいえば、わかるところと全然わからないところがあるなと思った。

自閉症を生きた少女COCORA」もそうなのだが、この二人には解離様の症状がある。

そして、心的外傷的な育ちも感じられる。

しかし、ふたりの学校でのいじめのあたりの話は読んでも、私には全く理解が出来ないのである。

もちろん、とても大変だったんだなあとは思うのだが、クローズアップ、フォーカスして書かれすぎているというか、ひどく一方的な印象で書いてある気がしてならない。

これこそが、ある意味で自閉症スペクトラムASDの特徴なのだと思う。

一言でいえば、自閉症スペクトラムASDの人の解離とは、人(定型発達者)の気持ちがわからなすぎることから始まるのだ。

彼女たちは失敗した、嫌われた、いじめられたということを通して、独特の対人関係スキルを身につけて育つ。

しかしながら、そのスキルは、両者ともに本や漫画や実際の人などの表面的な部分を取り込んだ「型」にすぎない。

考え、思いまでは取り込めていないから「型」。

その「型」が仮面、ペルソナ、ロボットのようになり、彼女たちの中身や実際とはかけ離れてしまうために身体や心が追いつかなくなり、解離的な様相となっていく。

 

一方で、定型発達者の解離は「人の気持ちがわかりすぎること」から始まる。

そこには考えや思いがあるため「型」というよりはやっぱり「人格」っぽくなってゆくのだろう。

このことから考えると、定型発達者で解離している人のいじめられの経験率は私はそこまで多い比率ではないのではないかと思う。

子どもというのは「異質」を感じ取るといじめることはあるので、軽微なものは思い当たることはあるかもしれないが、私自身は同級生にいじめられたことはない。

同級生たちの考えていることはだいたいわかるため、対策として、先手として、こちらがどのように振る舞えばよいかもだいたいわかり、いじめにならなかったのだ。

 

定型発達と非定型発達は脳の基本的なOSが違うのだという例えがよくある。

解離という事象を通して、このOSの違いのヒントはまた少し増えているのかもしれない。

いまはMacOSでWindowsOSを動かせるが、別物として捉えられていたときもある。

時代が進んで、MacWindowsが動かせるようになったように、定型発達非定型発達相互の脳のOSの理解も進み、両者ともに生きやすい世界に近づいていくようになるといいと思う。

 

ところで、定型発達で解離している場合は、被虐率が高いが、非定型発達で解離している場合は被虐率はそれほど高くないと「無限振子」の著者のセラピーをしているセラピストが書いていた。

定型発達の場合、親の気持ちがわかるぶん、愛着の傷が深くなる。

非定型発達の場合は、親を含め、誰の気持ちもわからないので、愛着の傷よりも、生きる過程でのわからないことの連続で起きる傷の方が深くなる。

とはいえ、解離の症状自体にはそれほど違いはないというのが私の印象だとある。

「解離の舞台」という本においては、その違いが指摘されていたが、自閉症ではない私にも本に書いてあるような解離の特徴があるのだ。

(本の言葉を借りれば離隔と拡散が自閉型の解離の特徴とあるが、私はこのどちらもある)

上に上げた本を読んでもよく理解できるのは解離の症状を書いているあたりだ。

解離の感じ方の違いはその人に備わった感覚器がハイレゾとローレゾの間のスペクトラムでどこに位置するかだけの違いでしかないと私は思う。

 

自閉症スペクトラムの解離と定型発達の解離の一番の違いは治療なのだろう。

定型発達の場合は居場所の確保や他者信頼の経験になる。

更にトラウマの治療を併せて行って、うまくいけば、日常がそこまで苦でもなくなるのだろう。

また、そのような治療は一時的(もちろんある程度の期間は必要だが)でよくなっていく人が文献や症例をみると多いようだ。

一方で自閉症スペクトラムの場合は日常で具体的にケア、通訳をしてくれる人、理解者のようなもの=治療のようなところがあり、それは一時的ではなく、継続的に必要なもののように見受けられる。

無限振子の著者はその点でとても恵まれているようだが、COCORAの著者はブログを見る限り、そのような人には出会っていないようだ。

自閉症スペクトラム障害解離性障害とひとくちに言っても、その「障害」の持つ意味の重さ、ハードルの高さは人それぞれ違うらしい。

 

私の場合はそのような文脈でいえば「障害」とは言いにくいレベルなのかもしれない。

けれども、ちっとも楽観的に思えない。

私はもう一生このままなのではないかとどうしても思ってしまうのだ。

いくら本を読んでも、勉強しても、分析しても、なるほどと思うことがあっても、それだけだ。

私はそれらの知識をただただ吸い込んでゆくブラックホールのようだなと思う。

心の中は驚くほど空虚なままだ。

私は本当は勉強も分析もしたくないのだ。

しないで済むことほどに幸せなことはないように思う。

私の勉強も分析も不安だから起きていることにすぎず、身体はとても疲れているのが最近よくわかる。

このごろ、鬱的な傾向がとても強い。鬱なのかな。単に花粉症で調子が悪いのかな。

インスタグラムを見ていたら、札幌の友人があげていた写真があった。

札幌はまた大雪が降ったようだった。

雪をかいてもかいても、降り止まぬ雪。季節はずっと冬のまま。

私はマッチ売りの少女のように雪のなかで死ぬ。そんなイメージが消えない。