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Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録 解離性障害とともに

昨日は心理発達について学ぶ回のカウンセリングセミナーだった。

そこで私が感じる絶望感がなんなのかがわかった。

心理発達上のステージの違いなのだ。

社会では、身体や知能や経験のレベルを判断されることが多い。

そう判断されるので、私たちは自然と他者もそのような観点から見て、判断することが多い。

そのような観点から見たら「普通」だったり「優秀」な人々でも、心理発達上で「大人」になりきれているかといえば全く違う。

しかし、心理発達という観点は、心理学や精神医学を学ぼうとしない限り、あまり知られることはない。

だからこそ、私は私の感じる「通じなさ」がなんなのか、わからなかった。

私にはわかるけれど彼/彼女らにはわからないものはなんなのかもわからなかった。

だから、絶望していたのだ。

 

人は知能指数が20違うと会話にならないという。

しかし、心理発達のステージは1段階違うだけで本当に話が通じない。

話が通じないというより、相手がまるでこちらのことは何も見えてないような体感となる。

心理発達は、それまでの自分を内包しながらステージが上がって行くが、内包の過程でそれまでの自分を一度、崩壊させることになる。

いもむしはさなぎになって、蝶になる。

さなぎの中身はどろどろの液状だ。

それと同じなのだ。

蝶が象徴学において「再生」「生まれ変わり」を意味する理由がよくわかる。

そして、ギリシャ語の蝶をあらわす単語はプシュケーで、こころ、魂と同じ言葉というのも本当に興味深い。

こころは脱皮ではないのだ。破壊と再生なのだ。

 

私はさみしい。私はずっと心理的には孤独であった。

形骸的には決してそう見えないからこそ、その気持ちを素直に言えば、わがままだ、贅沢だ、感謝が足りないなどと言われてきた。

でも、私は間違っていなかった。

私の両親は大人ではなかった。

それが当たり前だった私は、そういう異常事態を脳では異常とは判断できず、成長してからもなお、そのような人たちと断絶を感じながら過ごすのが人生なのであると思うことが常態化していたのだ。

しかし、脳では異常を判断できずとも、身体は異常をずっと昔から感じていたらしい。

異常事態、危機的事態だということを強い緊張というかたちで一生懸命、私に知覚させようとしていたのだ。

右脳が左脳にバトンを渡そうとしていたのだ。

それが昨日、かちりと歯車が合うようにわかった。

 

大島弓子の漫画に「夏の夜の獏」というのがある。

実年齢ではなく、精神年齢で人の姿が見える話だ。

私の生きている世界はこれだった。

昔はあー、なんとなくわかるなあと思いながら読んでいただけだったが、読み直したら泣いてしまった。

主人公は最後に泣く。

僕は本当は8歳なのだから泣いたっていいのだと思いながら。

ももっと早くに泣けていたら、どんなによかっただろう。

私は歳をとりすぎてしまった。

私の悪夢のような人生を、獏が食べてくれたらどれだけよいか。