Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録

向こう側

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私はすっかりカウンセリングで泣くこともなくなっていた。

いつも、勉強成果の発表、それについての訂正と指導みたいなカウンセリングになっていたから。

しかし、先日のカウンセリングでは最後に泣けてきてしまった。

 私が感じてきた世界への「通じなさ」は仕方がないことなのだと私はもう充分にわかった。

「通じなさ」は確かに心理発達上の壁の問題はかなりあるが、それだけではなかった。

心理発達は期を経るごとに視界が広くなるイメージだ。

だからこそ、成人2期の人となら私はもっと話ができるのではないかと感じるし、そこに達している人はたくさん世の中にいるはずなのに、何故こんなにも私は人と話ができている感覚がないのかと先生に問うた。

すると、先生は視界の広さとはまた違う深さとでもいうべきものが私にはあると言う。

そこにいる私と話ができる人はなかなかいないだろうね、とそう言った。

 

私はいつも何かをfixしていたのだと気付いたと先生に話した。

コップにいくつものビー玉を入れる。

コップは場、ビー玉は人。

どうしたって隙間ができてしまう。

そして、諍いやトラブルが起きそうな隙間が私にはわかる。

大抵、そんな隙間はビー玉たちには見えない底の方の死角にある。

私はその隙間に入り、そっと埋める。

コップをかえても、ビー玉をかえても、私はいつも埋めるべきところがわかるから埋めてしまうのだ。

私はビー玉ではなく、コップやビー玉の隙間を埋める液体だ。

埋めてしまうから誰も私に気がつかない。

気がつかないどころか、私を軽んじて、どんどん横暴になる人が多い。

そして、その隙間のかたちでいることに私は疲れ切ってしまう。

そこで隙間の改善について話し出そうとすると、誰にも理解されない。

私はずっとずっとそうだった。

これはいまならわかる。私が、彼ら/彼女らをそうさせていたのだと。

私が埋めることで、彼ら/彼女らは偽りの全能感に浸ってしまい、早い話が調子に乗るのだ。

私は埋めない方が良かったし、埋めなくても良かった。

問題は問題が起きるときに起こるものであり、それを何人たりとも、とめることはできないのだから。

そんなふうにわかるようになったのは、彼がかつてのそんな私に初めて気付いてくれたからだ。

私は彼といるときには隙間を埋めなくてよかった。

それは無重力の世界。

液体は無重力の中では浮かぶ。

何かの隙間に形を合わせることがなくていい。

宇宙空間にそのままぷかりと浮かんでいてもいい。

その楽ちんさは、こうしていま、いろいろわかってきても形容し難い。

息がしやすい、何故か楽、という以外に具体的な説明が一切できない。

 

彼もまた、同じだけの深さを持っているのだと先生は言った。

私は本当に貴重な人を傷つけてしまいましたと言った。

そして、私はずっとひとりだったし、彼がいなくなったら、なお、ひとりなのだとはっきりわかりました、と。

そこまで来たら、涙が出てきた。

友達が欲しい、私はそう、口にしていた。

先生はそうだよねえ…と小さな声でつぶやいた。

しばらく考えてから、先生はあなたと同じくらいの深さを持つ人じゃないと、あなたが普段fixしているように、あなたをfixできない、いや、この言い方は正しくないな、安心させることはできないんでしょう、と言った。

本当に衝撃的な体験でした、いままでなかったことですから、私はそう答えた。

そうだろうなあ…彼に出会えたこと自体が奇跡的というか…こんなことがあるんだねえ、先生がそう言うと、私は本当に、と泣きながら笑った。

 

どこにいるかもわからぬ、人数は限りなく少ないであろう私と同じ視点を持った人と私は友達になりたい。

たぶん、それは本心なのだろう。

それは願いや希望というよりはもっと自然でふんわりとしていてはっきりと意図されてもいなかったが、私はずっとそういう人はいると信じていたような気がする。

だから、私は彼に会えて嬉しかったし、彼と友達になりたいと何度も言ったのだと思う。

既に他者と婚姻関係にある私を思えば、合理的であり、合法的でもあるように思われたその提案に対して、彼は無理だと言った。何故かはいまだにわからない。

セックスをしたら友達になれないなんて法律があるわけでもないし、彼はかつてキスをしたことのある女友達といまだにみんなで飲みにいったりするようだし、私は意味がわからなかった。

しかし、問題はそこではない。

私が欲しいのは本当に"友達"だったのだろうか?

だから、彼のプロポーズを断ったのだろうか?

答えは、否、だろう。

名称はなんだってよかった、友達であろうと、パートナーであろうと。

私は本当は"理解しあえる人"が欲しかっただけなのだから。

私は結局、夢のようなケーキが目の前にあるのに、びっくりして、そのことを信じられなくて、これは私の欲しいケーキじゃない!と踏み潰して、逃げて来ただけなのだろう。

 

私は自分の欲求がいつもわからない。

欲求がわからないから、行動と結びつかない。

やりたいことではなく、やらなくてはいけないことしか見えてこない。

私はいまだに彼という空間がないと、やはりどこかのなにかの隙間に入り込んでしまう。

液体が微かな傾斜に導かれ、穴やへこみに自然とたまるように。

それにふと気がつけば疲れている。それの繰り返しだ。

ひとりでいるときじゃないと自分を保てない。

私は本当はどうなりたいのだろう。

みんな簡単に年や年度がかわると目標や抱負を聞いたり答えたりする。

私は毎年同じだ。「無理はしない」。それしか言えないのだ。

無理はしない、の向こう側がいつまでたっても見えない。