Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録

分離ではなく協力

アドラーの言う課題の分離について調べていた。

http://diamond.jp/articles/-/46565?display=b

私はこれができていないから、いつも疲れながら、生きていたのだろうかと考えていた。

これができると、確かに本当に魔法のように気持ちが楽になるような気が、一瞬する。

けれど、課題を分離すればするほど、他者との距離は一定の遠さを維持するだけとなる。

そこには甘えがない。

そもそも、課題の分離をするということは人に甘えさせないということで、それは同時に自分が人に甘えることも段々とできなくなるようにしているということにもなるからだ。

 

誰にも甘えない、迷惑をかけない、自分の力で生きる。

かつて、私にはこれは素晴らしいことのように見えていた。

更に多くの大人がそうやって生きてるようにも見えていた。

だから、ここを目指そうとしていたし、そのようになれていない自分を情けないと思っていた。

機能不全家族に育った非定型発達の異邦人はおそらくほとんどがまず、ここを目指そうとするのではないかと思う。

機能不全家族における親はだいたいが甘えをはるかに超えた依存とそれについての開き直りで生きている。

子供はそれを助けるのが生きる術となり、親のようになりたくないと言う気持ちを持ちながら育つ。

超自立とでもいうような姿を目指し、育ちのせいで我慢強い異邦人は社会に出てもなお、更に我慢しながら生活をする。

 

我慢はあるとき、様々な症状として現れ出す。

鬱、依存症、不安障害、摂食障害などなど、異邦人の積年の我慢は多くの場合、精神的な病に形を変えるようだ。

どんな人にも得意不得意がある。

だからこそ、何事もひとりでやって、生きていくのは大変すぎる。

それなのに、ひとりでやろうとするから、心が疲れてしまうのだろう。

 

人は助け合って生きるのが自然の姿らしい。

人間の赤ちゃんは、動物の赤ちゃんと比べると、成長が遅い。

馬などは生まれてから数時間で立ち上がるのに対し、人間は驚異の遅さといえる。

遅いからこそ、赤ちゃんは大人に助けてもらわないと生きていけない。

大人たちも他の大人たちと助け合わないと、赤ちゃんを育てることが困難だ。

ここでポイントなのは、一方的に助けるのではないということ。

「助け合う」ということ。

異邦人はこの「助け合う」の学習を家庭の中でする機会がないことが多い。

助けるばかりで助けてもらえないことをひたすら学ぶ。

だから「助け合う」がよくわからず、頑なで孤独な生き方となってしまいがちなのではないか。

 

異邦人には課題の分離よりも、ひとりでできることであっても、誰かにやってもらったり手伝ってもらう心地よさの体験のほうが必要なのかもしれない。

課題を分離させるのではなく、助け合って、協力して解決する体験。

いや、必ずしも解決に至らなくてもいいのかもしれない。

解決できたらよろこび、できなかったらかなしみ、それを協力相手と分かち合えればそれで充分なのだろう。

必要なのは、一人称の体験ではなく、二人称の体験。

そんなことをここ何日間か、考え続けている。