読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録 解離性障害とともに

拝啓、ジョン・レノン

youtube.com

 

4月に引っ越してきた家は大きなロフトのような作りで、1階のリビングの半分ほどの面積の上の部分が吹き抜けだ。

つまり2階の部屋の半分ほどは空間である。

大きな窓がそこにあり、空間では光と影がさまざまな表情を見せる。

私はその空間が好きだ。

そして、なにもないというのはなんて贅沢なものなんだろう!と思う。

なにもないから見えるものがあるのだ。

 

村上春樹の「騎士団長殺し」に出てくる騎士団長の姿のイデアであるとされる人の言葉遣いは少し変わっている。

〜がない、とか、〜ではない、と言うべきところを「あらない」と言うのだ。

時間がないを時間があらない、みたいに。

ないとあらないはなにが違うのか。

私はしばらく考えた。

ない、は、やはり「ない」だ。無だ。茫漠としている。

しかし、あらない、は、「ある」が「ない」ことを指す。

「ある」が「ない」とわかるときは、おのずとそこにはあって当然のはずのものがないというような場合、あった気配が感じられる場合、あってほしい場合ではないだろうか。

 

「ある」が「ない」という状態や表現を許すならば、「ない」が「ある」を許すことにもなる。

騎士団長のいる世界での物事の「ある」や「ない」はそういう尺度だからあのような奇妙な言葉遣いなのかもしれない。

「ある」が「ない」については上記に書いたが、「ない」が「ある」はどのような感じだろう。

これは私は近年続いている断捨離で得られる感覚なのかもしれないなと思う。

クローゼットや収納スペースに物がないとき、そこには空間がある。

なにもない、が、あるのだ。

そして、いくら物を買い集めても得られなかった「なにもない」を求めて、あるものをダンシャリストたちは容赦なく捨てる。

 

私はいつも居場所がどこにもないような気がしていた。

人の数だけある設定、その設定の中の「私という役割」しかないような、そんな感覚。

誰かの中の「私という役割」を私がしているときには、私の居場所はかろうじてあるが、役割ではない私の居場所はどこにもなかった。

でも、どこにもない、が、ある、とするならば?

そこが私の居場所なのである。

そして、その、どこにもない場所にいるからこそ、私は多くの枠を眺めることができるのだ。

 

村上春樹の最新作、引っ越した家、そして私の人生における悩み。

なにも関係が「ない」ように見えるそれぞれの物事を私の脳は結びつけ、「ある」に変える。

いずれも「ない、が、ある」ことを指し示している3つの要素は私のそれまでの「設定」を見切り、崩壊させるきっかけであり、新たな「設定」の材料となる。

よく、この世は幻想などというが、全くその通りなのだ。

自分の脳が作り出した世界を私たちは生きている。

人は単なる空間や小説や自分の経験を撚り合わせて「設定」を作れてしまうくらいに素晴らしい能力(いや脳力と書くべきか)を持ってはいるが、なかなかうまく使いこなせていない生き物のようだ。

 

ないもある。

そのことに気がつき、ないの中にあるものを見れたとき、それまでの世界をまるっと包み込んでいた風呂敷ははらりとほどけ、くるっとひっくり返り、また世界をきれいに包みなおす。

表が裏に、裏が表になったのは風呂敷だけで、世界はそのままだ。

 

私の居場所のなさは自信のなさでもあった。

私が感じるものを口にすると人は怒り、私を冷たいとか共感的でないとか傷つけられたと批難し、排除した。

それは、私の感じ方は間違っているということといつの間にか同義となり、私の感じ方に私は自信を失っていた。

感じたことを口にしてはいけない、相手の感じ方の範囲に合わせなければいけないと私は強迫的なまでに思うようになり、とにかく相手や物事に対して多くの情報を集めるようになった。

「怒られない/がっかりされない/排除されない/誰も傷つけない位置」を探すために。

つまり「自信がない」は「たくさんの情報を調べ集め分析し精査するちからがある」「なにかを簡単にジャッジしない」でもあったのだ。

「自分の設定が確かでない」は「他人の設定を見るちからがある」から。

そして「他人の設定が見えると無視できない(=設定の役割をやってしまう)」は「相手を傷つけたり怒らせたりしたくない優しさや配慮が私にもある」。

最後に「居場所がない」がくる。

これは、上記にも書いたように「その居場所のない場所に私の居場所がある」となる。

 

手持ちのカードを見て、このカードでは戦えない、カードの順番を入れ替えてみてもなにもみえてこない、絶望的、条件が悪すぎる、と諦めていた私のカードには裏面があったのだ。

しかし、私の裏面はカードを見る力のある人には見えていたらしい。

その裏面は「セラピスト向きのフォーカード」だったから、3度もそう言われる事態が起きたのだ。

他者のカードの裏面はよく見えても、自分の裏面は見えないのが、私であり、人間全員なのだ。

だから、人は他者を必要とするのだろう、自分をよりよく知るために。

 

裏面を見て、あなたにはこんな素敵な部分があるよ、と教えてくれる最初の存在は、多くの人にとって、親や家族だろう。

その後、その教えてくれる人は成長に従い、友人となり、恋人となりながら、人はどんな物事にも裏と表があり、どちらが間違っているわけでもなく、ただ両方があるのだということをたくさん学んで、親となる。

この最初のステップ、「親や家族が教えてくれる」をできなかった人が異邦人であろう。

裏の意味を教えてもらえないと、裏があることすら知らないままなのだ。

それは、まるで本当は主人公は魔法が使えるのに、武器でしか戦えないと思い込んでいるから、RPGゲームがある段階から全く進まない、勝てないみたいな感じだろう。

そんな人生は疲弊しつくしてしまい、多くの場合、その設定は崩壊を迎える。

 

だからこそ、世の中には物事の裏面、違う面を見ることができる人や見せることができる人が必要なのだ。

それは精神科医臨床心理士やサイコセラピストに限らない。

画家は絵で、写真家は光と影と色で、音楽家は旋律や歌詞や楽器で、詩人や小説家は言葉で、うたうたいは声で、俳優は演技で、ダンサーはダンスでそれらをしている。

私は物事のさまざまな面を見出したり、あらわしたり、ひきだしたり、かたちにする人たちはみなアーティストなんだろうと思う。

そして、その意味での「アート」こそが人間全員に与えられた本来の仕事のような気がしている。

ジョンレノンは言った。

「Our life is our art」

本当にその通りと私は思う。