Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録

ハコミセラピー

グラン・ブルーという映画がある。

見たのはDVDではなく、まだビデオで、高校生のときにツタヤで借りたのだったと思う。

すごく簡単にいえば、素潜りで海の深くまで潜るダイバーたちの話だ。

私はかろうじて泳げる程度で、当然ながら海の奥深くの風景は知らない。

現代はカメラも素晴らしくなったので、そのような映像や写真を私たちは当たり前に見ることができて、思い浮かべることだってできる。

しかし、実際のそこには、そこにしかないものがあって、それは映像や写真には映らなかったりもする。

どんなに技術が発展しても、潜らずして、それを実際に感じることはなかなか難しいのが実情だろう。

(ありとあらゆる芸術はその「自分に感じられたこと」をなんとか現そうとする試みだし、バーチャルリアリティの技術もまたそれを目指してるから、多分それはいつか実現するだろうけど)

だからなのか、私はグラン・ブルーという映画の評価ほどには、この映画から肝心の何かをいまいち感じることができてはいないような気が、観たときにした。

 

海の深くにも風景があるように、身体の深くにも、そして、意識の深くにも、風景はある。

私は最近、そんなことを思う。

NLPや心理学などを総括した勉強会に4月から私は参加しているが、そこでは4月、5月とフォーカシングの練習、体験をしている。

フォーカシングはダイビングと同じだ。

自分で、自分の中に、自分のペースで潜っていくのである。

潜れる深さも、ペースも人それぞれ。

深いから/早いからいいものでもないし、浅いから/遅いから悪いわけでもない。

身体の疲れ具合や体調、気分でそれは容易に変わるし、どれもそれが「今日のいま、このときの私」だというだけだ。

そして、そのことから「あ、疲れてたんだ」「なんか冴えてるみたい」といまの自分のことがわかる。

そういう「わかる回路」を繰り返して使っていくことで、その「わかる回路」の感度と能力が強化される。

そうなると、フォーカシングをせずとも、自分のことがわかりやすくなってくる。

必要なときに深く早く的確に、不必要なときにはさらっと浅くのんびり楽しく、調節できるようになればきっと最高だね、というだけで基本マイペースで良いし、むしろマイペースでなくてはできないし、そのマイペースをつかんでいく作業とも言える。

それがフォーカシングの概要と目的だ。

 

このフォーカシングというものを知って、体験すると、私はこれを昔もしたことがあるなと思った。

私の色彩学の先生は毎日朝晩と瞑想をしている。彼女は多分、今もしているだろう。

彼女は私が受けていた授業の中に瞑想を取り入れていた。

イメージの中で風船を膨らませる。

その風船を持って、すうっと、ぷかぷかと、降りてゆく。

どこへ?とか思っても「思っているなあ」って思いながら、降りてゆく。

降りた先で感じること、思うことはただただ次々に流していくだけ。それだけでいい。

彼女はそう言っていた。当時の私は???ってなりながらそれをしていた。

私のヨガの先生たちは何人もいるが、みんな同じことを言っていた。

先生のポーズを見て、声を聞いて、自分も同じポーズをする。呼吸を合わせる。

しかし、そのポーズをしているつもりでもできていない時もある。

かたちはそっくりにできていても、力が入る箇所が全然違っていて、そのことで呼吸をしなくていけないのに気がつけば呼吸が止まっている時もある。

「身体と呼吸に意識を向ける。意識と身体を合わせる訓練がヨガ」

先生たちはそう言っていた。私はわかるようなわからぬような気持ちでそれを聞いていた。

今となってみると、瞑想とヨガとフォーカシングはどれもよく似ているように私は思う。

 

 

先日、受けたローゼンメソッドもタッチングを通して、自分が感じること、溢れ出てくることにフォーカスするものだった。

瞑想やヨガと決定的に違うのはタッチング、触れることを通して行われる=他者がずっとそばにいる=自分が感じていること他者に話すという点である。

昨日、受けたハコミセラピーもまたローゼンメソッドとよく似たものだった。

違いはローゼンメソッドが「静」なら、ハコミセラピーは「動」という感じ。

ハコミセラピーは例えていうなら「セラピーという場」の中でセラピストも私もころころと転がりながら、感じることを見ていくものだ。(実際に転がりません、一応ね)

順番も、セオリーもない。

ただそこは「セラピーの場」なのだということが絶対的にあるだけだ。

「セラピーの場」は互いに傷つけたり、傷つけられたりはしない、あらゆるジャッジの重力がない場所ということだ。

セラピストのすることはころころとクライエントと一緒に転がりながら、クライエントから出てくる言葉や体感を大切な料理の材料として拾っていくことだ。

「緑、丸くない、少し苦い」そんなキーワードから、それはなんだろうね?と一緒に緑で丸くない少し苦いものを丁寧に見ていく。

そうして、ああ、それはピーマンだ!と互いに確認していく。

その繰り返しで、いくつもの材料の確認を終えたときにはクライエントの「料理」が自ずと見えてくる。

ハコミセラピーはそんなセラピーだった。

1回ですぐに見える人もいるだろうし、少し日にちを置いてじわじわの人もいるだろう。

2回、3回とセラピーが必要な人がいるかもしれない。

 

アートセラピー、ナラティブセラピー、ローゼンメソッド、ハコミセラピー。

これらについて、私はこれまで言及してきたが、それらはどれも似たような構造を持つ。

まずは絶対的な「セラピーの場」の保障だ。枠、設定、世界の構築だ。

それは「ここは安全です」と口で言うだけでは生まれない。

そこにはセラピストの持つセラピスト性がどれだけあるか、が関わっている。

次にその場でセラピストがどれだけの役割を同時進行でできるか、だ。

「優しい親」「なんでも知ってる賢い先生」でありながら、クライエントと一緒に、ときには代わりに「戸惑ったり怖がったり泣いたりわめいたりできる子ども」でもいられるか。

そして、それはいずれもセラピスト自身ではなく、クライエント自身の中にあるものだと認識できるか、だ。

この認識がないと、セラピストはまるで自分だけが偉いもの、分かったものになった気分になる。

こういうセラピストはすごく多い。

親の役割、先生の役割に酔いしれるだけで誰のセラピーなのかわからない状態を作り出してしまうのだ。

こういう場合、怒りを強く持ったクライエントならカウンセリングやセラピーは心地の悪いものだと認識して信用しなくなるだろう。

罪悪感を強く持ったクライエントならセラピスト側の高揚感を感じることで「役に立っている」と誤認し、それが心地よくもあるので、何度か通い続けはするが本当の自分を出せないことが続き、最後はそれが怒りにかわってしまうだろう。

 

セラピーとは面白いものである。

一般的には「セラピスト」と「クライエント」と呼ばれる二人が真っ暗闇の中にポンと置かれる。

今、感じる温かさは私の体温か?相手の体温か?

今、聞こえているのは相手の声か?私の声か?

それすらもあやふやになるほどの暗闇で二人は相手を通して、自分を見つけるのだ。

セラピストやクライエントという肩書きなんて、一度暗闇に入ってしまえば、なんの意味もない。

私はいろんなセラピーを受ける前にやっぱりこれも実際に体験していた。

彼こそが、私の最初のセラピストだったのだ。

暗い暗い、深い深い海の底でグラン・ブルーの主人公が見つけたものはなんだったのか。

10年以上の時を経て、私は映画の描こうとしていたものがおぼろげながら見えてきた気がする。

そして、不思議と今まで思い出しもしなかった映画の中に出てくるすんごい山盛りのパスタまでもが思い出されて、無性にパスタが食べたいのだ。

信じられないほど山盛りのボンゴレビアンコだったはず…と検索したら、出てきた。

っていうか、この人のパスタの方が映画の中より美味しそうだけどね!

【映画の料理作ってみたらvol.13】『グラン・ブルー』のスパゲティ・アル・マーレ&白ワイン ガブ飲みレシピ | dmenu映画