Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録

依存症

私は幼稚園に上がるあたりからよく咳をする子だった。

眠る前に咳が止まらなくて、むせて吐きそうになる程、涙が出てくる程、咳が出る。

病院では喘息ではないと言われ、原因不明だったが、心肺機能を高めるために水泳を勧められ、私はスイミングスクールに通っていた。

埃のせいかもしれないからとぬいぐるみは与えられなかった。

気休めのように出る薄いオレンジ色のトローチを幾度も舐めたことを覚えている。

こんな風にして、その都度、風邪かな、アレルギーかな、私は喉がウィークポイントなのかな、となんとなくごまかしながら過ごしてきたが、これはおそらく心因性咳嗽だ。

その中でもヒステリー球、梅核気と呼ばれるものだ。

喉のあたりに丸い玉がある感じがするのだ。

それが唾を飲み込むときにも感じられ、ひどい時は文字通り、ご飯も喉を通らない感じになる。

彼と最初にはなればなれになった時もヒステリー球が現れた。

それに対し、あの時、私をみた精神科医は半夏厚朴湯という漢方薬を出した。

これは全く正しい処方だったのだろう。

ただ、あの時は、処方が出たと同時に私は家出をし、彼に会ったので、薬が効いたのか、会ったことが効いて症状がおさまったのかははっきりとわからない。

 

ヒステリー球、という名前には苦笑と同時に納得だ。

解離性障害の昔の名前がヒステリー。

見た目には何も炎症のない喉だから、ないものがあるように感じられる神経症の人特有の症状に見えてこの名がついたようである。

しかし、実際は交感神経が活発になりすぎて、そのせいで喉の筋肉が収縮して異物感、違和感が出ているそうだ。

交感神経が活発ということは過覚醒、緊張状態ということ。

まさに愛着障害を持つ異邦人、解離性障害複雑性PTSDの人には大いに起きうる症状と言える。

心的外傷の再現時は特にそれが顕著だが、そうでなくても、常に過覚醒、緊張気味なのが異邦人だ。

そのため、異邦人は普通の人から見たら、そんなストレスは日常茶飯事でしょと怒られたり鼻で笑われたりすることでもびっくりするほど、体力を消耗し、色々な症状が出ることが多い。

解離がある私の場合は記憶も感覚も飛ぶ。

おとといなどはそれで帰り道に車に轢かれそうになってしまった。

ハッと気付いたら車が目の前に突っ込んできて、目が覚めた。

危ないどころの話ではない。運転手さんにも申し訳なかったが、それまで私は自分がどこで何をしていたのか完全にわからなくなっていた。

 

しかしながら、危ない思いをしても、この経験は無駄ではなかったと言える。

私がこの喉の違和感を改めて考えたり、ストレスの原因が何かを改めて考えることができたのはフォーカシングをするようになった時期に、ストレスがかかる新しい試みをしたからなのだ。

私が今、何を感じているか。

私の身体はどういう感じか。

私はストレスの中で「この人、通じない」と思った時、二の腕と首が凍りついて、かたくなることがわかった。

そして、そのすぐ後に全身が重くなり、力が抜けてしまうが、妙に冷静になり、あとは全て「はあ、そうですか」と淡々と対応することもわかった。

この一連のことがものすごくストレスになって疲れてしまうらしいこともわかった。

何かを言っても無駄であるとわかる時、私はされるがままになってしまうのだ。

それでも、今回はそのお馴染みのルートをなんとか回避し、私は意見を言ってみた。

そこでも「やっぱり通じない」が繰り返し起きた。

その疲れが一定のレベルに達すると最初は、日常と全く同じ夢を見るようになった。

夢なのか現実なのかわからないほどにリアルな解離特有の夢だ。

次に首の痛み、その次に左側の鼻づまり、ヒステリー球の順であった。

鼻づまりについても今回、初めて調べてみたが、首や肩の筋肉が固まると頭部のリンパの流れが悪くなり、それが鼻の血管を圧迫することで鼻が詰まることがあるらしい。

全部、繋がってるんだということに私は身をもって、やっと気付いたのである。

 

私は首がウィークポイントなのは事実だろう。

首が凍りつき、首が痛くなり、首がこり固まり、首のあたりが詰まるのだから。

更に大事な事実は、少しでも気をぬいたり、焦って物事を決めると、私は通じない人がいる場所や状況を「自ら選んでしまいがち」だということである。

これは私の心的外傷の再現がいかにしておこるかの仕組みを表している。

このことは本で読んで、頭ではわかっていても、なかなか落とし込めない部分だった。

私にとっては「通じなさ」とは、とても馴染み深いものだ。

私の通じない筆頭は両親ゆえに、私は長い間「通じなさ」と共にあった。

認めたくないが、ある意味で私は「通じなさ」と親和性がとても高くなってしまっていて、「通じなさ」に引き寄せられてしまうのだ。

何も考えず散歩をするとき、気がつけば似たようなルートを取っているなあと思ったり、一番近いと思い込んでいたコンビニが実は2番目に近くて、1番目とは100mの違いだったとグーグルマップで知って驚いたり、ということが先日実際にあったのだが、これと同じようなことなのだと思う。

自分の中に根付いた思い込みが、私を自動操縦しようとしてくるが、私はそれにハンドルを預けてはいけないのである。

自動操縦だと「通じなさ」に引き寄せられるように行ってしまう。

私は「通じなさ」にできるだけ、衝突しないように、感じて、試して、確かめて、大丈夫だと思う人や場所をひとつづつ、焦らずに見つけていく必要がある。

今はまだ「通じなさ」だらけの道にしか見えない。

でも、きっと「通じなさ」のない道にたどり着くだろう。

または、自分で運転してるうちに運転がものすごくうまくなって、どんなに「通じなさ」というトラップが多い道でも、回避できるようになるかもしれない。

どっちでもいい。

とにかく、私はなんとしても、「通じなさ」依存症をやめる!

気がついたら「通じなさ」を味わってて、そこには無力感と絶望感がもれなくセットなんて、お酒を飲みながら、なぜ飲まずにいられないのか、どうしたらいいのかと悩むアルコール依存症とそっくりだ。

 

そして、ここまで思考がたどり着いた時、私はまた少し、彼と自分の関係性がわかった気がしている。

彼にはアルコール依存症に見える症状があって、私はそれをすごく気にしていた。

今の私は、彼は本当には依存症ではなかったと充分にわかっているが、いろいろなことを勉強するまでは気になって心配で仕方がなかったのだ。

それは私にも同じような症状があったからなのだろう。

私は一体、いくつの物事の理解を彼との関係から学んできたか、もうわからない。