Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録

ハコミセラピー ワークショップ2

君のとなりにいるその人って

ホントに君が思うような人ですか??

スガシカオは午後のパレードという曲の中でこんな歌詞を何気なく歌うが、この歌詞のようなことを本気で疑ったことある人はどのくらいいるだろう?

そして、その中で「となりにいる人だけじゃなく、すべての人がホントに自分が思うような人じゃなかった」ということに直面してしまった人は更にどれくらいいるだろう?

私はワークショップではそれが目に見える形ではっきりとわかる体験をした。

3〜4人のグループになる。その中の一人(Aとする)がマインドフルネスの状態になり、残りの人がそれぞれどこにいたら落ち着くか移動してもらいながら決める。そして、その場所からそれぞれに自分が呼んでほしい名前で呼びかけてもらう。

人は皆、自然と、Aの役をしている時、自分以外のそれぞれの人に投影をしてしまうようだ。

母、父、子供、義理の親、先輩、後輩、恋人、友達。

投影像はいろいろだが、そこで湧き上がる感情にほとんどの人が泣いていた。

そして、皆、配置の位置もいろいろでも、距離はとても近いのだった。

私は、といえば、ただ一人、グループの人に大広間の端と端に立ってもらっても、それでも近すぎると感じるのだった。

別の部屋でもいい、目に見えない方がいい、遠ければ遠いほどいい。

それが私の感じたことだった。

私は思わず笑ってしまった。あはは。

みんなはびっくりしながら、不思議そうにしながら、私につられて笑ってくれた。

 

グループの一人が興味深そうに私に問う。

「僕がもしあなたの大好きな人だとしたら、どこらへんの位置ですか」

私は自然とそれってどの時点で感じてた位置?と咄嗟に思っていた。

私は彼に出会う前はもちろん旦那さんが一番近い人だと思っていた。

だから結婚だってしたのだ。

そして、私は浮気や不倫なんて意味わかんねーと心から思っていた、はずだった。

私は、その頃感じていた旦那さんの位置を指し示した。

それでも遠いとみんな笑ったけど、確かにだいぶ近いねと、また笑った。

でも、違うんだ、今の私には目に見える範囲には誰もいない。

もしグループの人が、彼だとしたら私は手をつないでくっついていたっていいくらいの近さにいるんだ。

心の地図は実際の地図とよく似ている。

ただ一つ、違うとしたら、心の地図には縮尺が記載されていない。

駅の改札すぐにあるような地図が多くの人の持つ心の地図の縮尺だ。

私の地図はまるで世界地図のような縮尺だったのだ。

 

私は自分が異邦人であり、トラウマを抱えた人であると知っていたし、先日のハコミセラピーのデモセッションでも「距離感」を体感済みだったので、ある程度の予測と覚悟はあった。

しかし、その予測を遥かに上回る「距離感」がそこにはっきりとわかるかたちで現れるのには、笑うしかなかった。

私はそのことがおかしくて仕方がなかったのだ。

そして、本当はとてもショックだったのだ。

自分に関する知識が少なくて、単に興味でワークショップに参加した人の結果があれだったら、このショックを遥かに上回るだろう。

そんな話を先生にしたら、彼に会う前だったら、どうだったと思う?と聞かれた。

ああ、そうか、縮尺がわかってないから、みんなとそれほど大きく変わらなかったかもしれない、ショックも受けなかった気がします、私はそう答えた。

そう、だから、多分、ショックを受ける人などゼロに近いのかもしれない。

先生は彼によって、あなたの異邦人性は強調されてしまって、物事への感度もそれと一緒に強調されているんだね、と言った。

今まで一番近いと思っていた人との距離は私史上、最も近かった。

それは嘘偽りのない本当のことだが、それは異邦人ではない人たちと比べたらびっくりするほど遠いものだった。

そして、そのことがびっくりするほど近い彼によって、強調されてしまった。

全てはそういうこと。

 

ハコミセラピーのハコミとはなんとなく日本語のような印象を受ける語感だ。

実際はアメリカの先住民のホピ族の言葉だそうだ。

「日常のリアリティのさまざまな側面に対して、あなたはいかに参画しているのか?」

簡単に言い換えるならば「あなたは何者か?」という意味の。

ハコミのデモセッション、二つのワークショップで、私は癒されたとは決して言えないだろう。

ただ、それはセラピーとしての側面からだけ見た時の話だ。

ハコミを文字通り、あなたは何者か?と問われる機会だという側面から見たら、それは大いに効力があったと言える。

通常のカウンセリングと勉強を2年続けてきた土台の上に、ハコミを体験をしたことによって、私はようやく私の位置を定めることができたのだ。

そして、この位置から私がどうするか、どうしていきたいか、のプロセスにこそ、本当の癒しがあるのだと理解したのだ。

全ての人が私が思うような人じゃなかった、思うような距離感にいる人じゃなかった。

縮尺がはっきりしたことで、前提が書き換えられたしまった世界で私はどう生きるのか。

そのような運命を、宿命を、人生を、どう引き受けて生きるのか。

答えはまだわからない。