Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録

ハコミセラピー ワークショップ3

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3があると思わなかった。

でも、いま私の頭の中にあることは、やはりワークショップの延長線上で捉えたほうがわかりやすい気がしたので書くことにした。

私の目下の問題は2に書いたように距離感となる。

まあ、あらゆる問題は本人が問題だと思えば、その瞬間に問題となるだけで、気にしなければ問題ではないので、正確には、私自身はそれほど問題と感じてはいないのだが…

というより、彼に会う前からどうも感覚的に、本能的に「遠さ」はあったので、それが目の前に現れても、ショックはあれど、ああ、そうだったか…というような気持ちもまたあって、驚きはないし、私としては遠さに慣れているのである。

ただ、私自身が問題としてはいなくても「そこに相手がいる」場合はやはり問題となるのが世の中だ。

 

私はセックスができない。

もちろんずっとそうだったわけではない。

もう2年間くらいだろうか。

最後にセックスをした相手は彼だ。

その2年間、私は私に何が起きているのかわからなかった。

私は旦那さんと離れて暮らしてみたりもしたものの、旦那さんと別にものすごく険悪なわけでもないのだ。

昨今の東京の住宅には押入れがないため、我が家には布団はダブルベッドに使う分しかないのもあり、同じベッドで一緒に寝ている。

しかし、身体が触れるとびくっとして逃げ出したくなるのがいまの私だ。

理由は難しくない。

セックスをするような相手は特別な事情がない限り、心の距離が近い人となる。

今の私の日常にはセックスをするべきではない距離の人しかいない、と私の身体は判断している?判断できるようになった?一時的に誤作動している?のいずれかのようなのである。

一方で、私の意識は?といえば、試みてみるべきだろうかと思案してみたが、そもそも身体が凍りついてびくびくしてるのにかわいそうだなと思ったので無理させてもしょうがないでしょという感じだ。

そう、私は別段悩んでいないのである。

この感じを的確に表すなら「他人事」だ。

実にふわ〜っとしている。

これも解離だといわれたらそうなんだろうが、動物であれ、人であれ、自分の身体であれ、したくないできないというものは無理強いしてもよいことはひとつもないと私は心から思う。

 

とはいえ、夫婦はセックス、ならびに望むならば/また可能ならば、それによる繁殖という任務も組み込まれ、社会的な単位となっている。

そして、社会的だけではなく、生理学的にもセックス(スキンシップ含む)は脳にオキシトシンを出し、人に幸福感を感じさせ、それが長期的に見た場合、人の健康や長生きにも関係があるという。

これらのことまで考えてみると、ふわ〜っとしてる場合じゃないでしょというのも正しい意見だろう。

まあ、なにより私がふわ〜っとしてても旦那さんもふわ〜っとしてるのかは、私は知らないのである。

ただ、日々は過ぎているので、わりとどんなことにも人は慣れるんだな、すごいな、なんて私は感心したりしている。

 

先日「夫のちんぽが入らない」という本を読んだ。

小説ではない、エッセイ?自伝?みたいなものだ。

中身はタイトル通りである。

しかし、この著者は夫とはできなくとも、他の男性とはできるのだ。

私は医者ではないが、この著者は恐らくは転換性障害なのだろうと思う。

心理的なものが身体に転換して現れるから転換性障害

解離性障害が精神に現れるのに対し、転換性障害は身体に現れる。

以前の記事で、よく喉に玉のような何かがつっかえていると私が感じていたものはヒステリー球で喉の筋肉の収縮から起きているとわかったと書いたが、それと似たようなことが膣で起きることもあり得るだろうと思うからだ。臨床例の検索まではしてないけれど。

結局、彼女と夫にセックスはない。

夫は風俗に行き、彼女の生活にセックスはない。

そんな夫婦の話を読んで、私は、ああ、これでも双方納得でバランス取れてればいいんだなあと思ったし、いろんな夫婦がいるもんだと安心もした。

私に起きているイレギュラーな事態もま、いいかと思わせるちからがある本だった。

 

ハコミのワークショップでは、課題や問題をただ思い浮かべて、何も語らず、横になり、身体になにか感じたら、その部分にグループの人の手を当ててもらう、そしてその手が自分になにか話しかけてるとしたらどんな言葉かをグループの人に言って、グループの人に手を当ててもらったまま、その言葉を言ってもらうというワークもあった。

私以外の人たちは、手を当ててもらうだけで、重さ、苦しさ、痛み、熱さ、震えのような感じが溶けたりおさまったりして、更に言葉がけをしてもらうことでじんわりとしてきて、その過程で課題や問題の本質に気づき、やはり泣いたり、ぽわーんとしたりしていた。

私はいつも左の二の腕がすごく重くて痛い感じがあるので、それを問題として思い浮かべた。

すると、やはり左の二の腕に手を当てたいなあという感じがあることに気がつく。

実際、私はしょっちゅう自分の右手を当ててしまうのだ。

しかし、グループの人に手を当ててもらうとぞわぞわしてきて、当ててもらわないほうが快適だと感じられる。

さわるなーー!という感じです、と先生に言うと、無理しないほうがいいとのことであった。

私にとって、このワークは「ワークにならないということ」で問題の本質がわかるという逆説的な意味合いを持っていた。

 

私の身体は現況で、誰にも触られたくないらしい。

でも、思い返せば、私は昔からそうだった。

組体操やグループでやるダンスのようなものも心底いやだった。

触れ合いたくないのである。

友達が階段をのぼるとき、妹とよくお尻をふざけて叩きあったと言っていたときも、全く意味がわからなかった。

私なら嫌だし、そんなふざけあいっこの発想すらなかったから。

以前、あまり調子がよくないときに、会社の保健婦さんに大丈夫?と軽くハグされたとき恐怖で泣いてしまったこともある。

そんな怯えた顔されて私のほうが泣けるわよ〜と保健婦さんは笑っていたが。

高校の頃、デートで手を繋いできた相手に対し、ちょっとさわんないでくれる?と言ったら険悪になったこともある。

今思えば、険悪になって当然だが、本当に私としてはふざけんじゃねーよ、さわんなよ!とまるで反抗期の男子のような気分だったのだ。

もちろんその後は異性に対して、これじゃだめなんだなと学んだわけだけれど…

 

彼は初対面のときに、私の左の二の腕に触れた。

さわるとか、つかむとか、もむとかではない、ふれた、である。

同じことを他の人にされたら、私は完全にフリーズである。

しかし、驚くべきことに私はそこに違和感や不快感が一切なかった。 

言葉にしようのない、不思議な感覚があったのを覚えている。

彼は「癒される」と言った。

あのとき、癒されていたのは、本当に彼だったのだろうか?

私だったのではないだろうか? 

このような私は果たして、セラピーやカウンセリングを続けることや、時間の経過や環境やそれに伴う気持ちの変化で変わってくるのだろうか?

普通の人たちが普通にするスキンシップやセックスをしたいと思える距離の人に生きている間に出会うことがあるのだろうか?

私にはまだ、わからないことが多すぎる。

私はまるでリンク先の動画の野良犬のような世界を生きているのではないか…そんな気がしてくるのである。