Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録

観測できるが、解決できない

私が解離性障害とわかってから、ネット検索し、調べるということをし始めた時によく読んでいたサイトがある。

今でも思い出した時に検索して、読んでいる。

そのサイトを作っている彼女の記事は私とは全然違っていて、とても緻密で、目次まであり、書籍からの引用もきっちりと書いており、丁寧にリンクまで貼ってある。

面倒臭がりの私にはとてもできない、そのやり方に感嘆しながら、感謝しながら、私は彼女が読んだ本で気になったものがあるたび、読んできた。

そんな彼女の今までの記事の中でも、これはおそらく渾身の記事だろう。

彼女が彼女の能力を持っているから、そして、彼女が彼女の人生を歩んできたからこそ書ける記事と言える。

susumu-akashi.com

彼女は自分がハイパーグラフィアではないか、と思っているようだ。

「突き動かされるように大量に書いてしまう」という事実を病的に解釈すれば、確かにそれはそうなのかもしれない。

しかし、私は彼女の”仕事”はハイパーグラフィアという言葉を遥かに超えたところにあるように思う。

これらを書くことが彼女の魂の目的に他ならないから、ここまで書くことができるのではないか、と。

そうでなければ、ここまでの情熱と意欲を持つことはなかなかできるものではない。

 

当然ながら、もし内臓と手足と心すべてが一体となって性行為を体験できれば、

解離は生じませんし、逆に自分が生きているという喜びを最大限に味わえます。

自然界の生き物すべてがそうであるように。

私は上記の記事にあった、このたった3行に心を奪われた。

他の部分に書いてあることも、私の、そして、彼のことに違いないのだが、この3行こそが私の彼との関係の「実感」なのである。

先の記事でセックスができないと書いたが、そもそも、私は彼とセックスして以降、彼とするセックス以外に全く興味がなくなってしまったのだ。

今まで私がしていたセックスはなんだったのだろうと思わせるだけの体感がそこにはあった。

私が言いたいのはテクニック的な話ではない。

私は自分では全くわかっていなかったが、基本的にいつも緊張状態なのである。

引用した記事に書かれていることそのままだが、身体がフリーズ/麻痺してばかりいるために慢性疲労であり、不眠症であり、でも解離しているから自分では全く緊張に気づいていなかった背側神経系の人が私である。

そんな私だが、彼といるときはとても楽なのだった。

何が楽なのか、といえば、それは身体が楽だったのだと今では思う。

息がしやすいと感じていたのが何よりの証拠だ。

息がしやすいというのは喉に、首に、肩に、緊張がないということを指す。

私は緊張状態でするセックスと、緊張がない状態でするセックスとどちらがいいかといえば、後者であるということを言いたいだけなのだ。

だからこそ、私は彼とのセックスによって、おそらく人生で最大量と思われるオキシトシンが出たのだと思われ、それで「彼を好きな気がする」という事態になっているのだ。

困ったことだ。理解ができても、答えがわかっても、どうにもならない。

肉体を持つということは、神経がかき集める感覚の奴隷であるということ。

脳を持つということは、脳内麻薬の奴隷であるということ。

その二つは繋がっているのだから、本当に素晴らしくもあり、厄介でもある。

そして、私の意識はもはや私の身体が緊張を感じないで済むような相手には今世で出会うことは現実問題として、ありえないのではないかと思っている。

 

一緒にいると楽だ、というのは私だけが感じていることではなかった。

彼もまた、同じように感じていた。彼は以前、そのように話してくれた。

解離の反応違いの双子と言えるPTSD(彼の場合はC-PTSDだが)で、腹側神経系で、身体に逃走/闘争反応が出て、強い緊張と不安に苛まれているのが彼だった。

私たちは感覚のどこかで、出会った時から、抱えている緊張のレベルが同等である互いの存在を感じ取って、互いに安心したのではないか。

そして、その安心は意識に上がるものではなく、身体の感覚、無意識の世界で起きたことだったのではないか。

 それを意識の世界で理解するのに、私は実に3年近い年月をかけたわけだ。

残念ながら、彼が意識の世界でそれをきちんと理解することはないだろう。

「変な女だったなあ」みたいな感想とともに彼の中の私は既に葬られているだろうから。

 

彼に会った頃、私は最も凄まじい解離状態だったと思う。

しかし、解離状態のように見えて、ほぼ完全に解離していたはずの身体と意識が急激に接近した状態という方が正しいのかもしれない。

誰かに身体をハイジャックされているようで、意識とは全く違う動きをしていた。

考えていることと身体の反応が全く連動せず、身体の反応が圧倒的パワーでやってくるので、それに従うより他になかったのだ。

今の私はそのまま身体をハイジャックされた状態で、ハイジャックされる前の環境でなんとか生きている。

その生きづらさは彼に会う前の何も気づいていない自分の方が幸せだったのではないか、と毎日考えてしまうほどだ。

今すぐ私の上に巨大隕石落ちてこないかなと毎日眠る前に思う。

運動会が嫌だった小学生の私が前日に雨降らないかなと思うように。

今じゃ、毎日運動会ってことだ。

 

このもつれた事態を、カウンセリングや、セラピーや、脳神経学によって、私は観測することはできるが、一向に解決することはできていない。

私の右岸と左岸の間に橋はできる気配がない。

私はそんなことを隅田川の右岸から今夜も景色を眺めながら思うのだった。

そうそう、今日は、なぜ私が疲れた日の夜や朝方に川を見にきてしまうか、もわかった。

川の上には人がいなくて安心するから。

左岸側にある高速に作り物のおもちゃみたいに見えるサイズの車たちが通り過ぎるのが好きなのも、私には全ての人や事象がそんな風に感じられていて馴染み深い感じがするから。

私が川で見ている景色は、私の脳の中の世界に近いんだ。

そんなことわかったって、どうしようもないけど。