Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録

今日も昨日のサイトの記事から思ったことを書く。

susumu-akashi.com

解離になる人の特徴と、HSPの特徴は似通った部分が多いというのは、私のブログでも書いている。

私自身は私のことをHSPの解離だと位置付けている。

HSPの本に、HSPはまるでBluetoothでも付いているように、仕事であろうと、料理であろうと、見るだけでできると書いてあるページがあった。

私は完全にそれだ。身体的に苦手なことはできない(私の場合は体育にまつわること)けれど、それ以外は習わなくてもなんだか見てるだけである程度できるのだ。

感覚としては、自分でも理由はわからないけど、ただ、できる、そんな感じ。

それが小さい頃は周囲の大人には「優秀さ」や「利発さ」や「器用さ」に見えるために、本来は超内向的なのにもかかわらず、外向的な人向けの「〇〇長」的な仕事が回ってきて、またそこにある周囲の私への期待感もわかるために、常に過緊張という羽目になっていた。

大人になってもそうだった、というのが本当のところだろう。

 

目には見えない、そして、音でもない、そんなリズムを引き込む、共鳴するといわれると、私は確かにそうなのかもしれない。

石川勇一さんの本にあった解離の臨床例の女性は私に少し似ていた。

その人のことを本の中ではやわらかさ、独特の気安さがあると書いていた。

カウンセリングの先生も読んで、これなんだよなあ、と言っていた。

私は年がら年中、出会うひと出会うひと、みんなに話しかけやすさや気安さ、水のような、液体のような、という感想をもらう。

これがまさに引き込み、共鳴を表す印象なのだろう。

そして、私は共鳴というよりは、引き込みのちからが少し強すぎるのかもしれない。

なぜか隣のマンションの管理人さんに話しかけられ、話を延々聞くはめになる。

隣に座った人が私といると安心すると言い出し、自然と身の上話を始める。

本屋でどうしてもあなたに相談したいのですと言われてしまう。

セラピスト向きであると何人もに言われる。

彼もまた、私といると、ぺらぺらと自分のことを話してしまって、いつもの自分じゃない、操られてるんじゃないかと思う、怖いと言った。

私としては、なんの意図も期待も予想もしてない。

ただ、いつも、そのようにことは起こり、私はまた起きてしまったか、と思うだけ。

 

ハコミのワークショップ1で書いたラビングプレゼンスで互いに感じた、聞いた、見えた感覚が通ずるというのも、この文脈で考え直すと違う見方ができる。

私はあのとき、人間は全員すごい!と確かに思ったのだが、他の人同士の体験談ではシンクロ率はそこまでではなかったようである。

引き込み、共鳴の能力がどちらかが高い場合、そこにつられてゆくのが人間なのではないだろうか。

私の引き込みのイメージは磁場に近い。

通常、その磁場のなかで人は私を見ることはない。

そのとき、相手に見えているのは私ではなく、私のように見える自分なのだ。

なんでも話せそう、と人々が言う私などはどこにもいない。

事実としての私は、他人どころか、自分さえも「他人事」の人なのだから。

この人にはなんでも話せそう、と思うとき、人は話したいことがある、ただそれだけだ。

そして、それを投影する何かや誰かを常に無意識で探している。

引き込み力のある私はその無意識を知らぬ間に引き込んでしまうようだ。

結局のところ、私に相談する人々は私に、ではなく、鏡に映った自分に話しかけているようなものなのだ。

 

以前、彼がいることで私の異邦人性が強調されている、と書いたことに対し、強調ではなく、相乗だったのではないか、というコメントをいただいたが、確かに今、改めて考えてみると、そうなのかもしれない。

彼は普通の人がナチュラルに全く気付かずに引き込まれてくるのに対し、そこに違和感を感じることができた。

私が知る限り、唯一の人だ。

彼は引き込みではなく、共鳴のちからが高いのだ。

カウンセリングで私は以前、彼はかなり優秀な受信機で、私は反射機だと話したことがある。

反射機は受信機をみれば受信機を映し出す、受信機は最初は反射機を受信したはずなのに、次の瞬間には映し出された受信機、つまり自分を受信するわけだ。

そこでなにが起きるかといえば、受信機側の混乱だ。

混乱した受信機を映し出す反射機にも混乱が生じる。

脳内がパソコンだとするならば、そこで画面に映し出される文字は「予期せぬエラー」だ。

互いになにかがおかしい、と感じて当然だろう。

そのエラーを調べるうちに出会った、いまの私のカウンセリングの先生に「彼のことが書いてありますよ」と薦められた本を読んだら、自分のことが書いてあった時点で、私は完全にクラッシュしたのだ。

 

私はいろいろなことをこうして調べては、考え続けているが、結局は、私が恐ろしい威力の台風の目なのではないかと思えてくる。

あれもこれもそれも、私が巻き込んだことなのではないかと。

人生の嵐のようなとき、の嵐が自分だというのはなかなかにつらい。

引き込み、共鳴のちからは一時的にストップさせたり、軽減させることはできるのだろうか。

意識したらなんとかなるものだろうか。

でも、ストップさせたり、軽減させることができたとしたら、何かが変わるのかと聞かれると、答えがうまく見つからない。

私はただ、私という鏡に映った自分を見る人ではなく、私という鏡自体を見て、素敵な鏡だねと言ってくれる人と仲良くしたいだけなのに、どうしていつもこんがらがってしまうのかな。

 

ソファで寝ていたら、彼の夢を見た。

私は喫茶店のようなところにいる。

目にとまった人の半袖のシャツから出る腕を見ていた。 

彼によく似ている二の腕と前腕だなと思っている。

前腕と手を注意深く見ていると、煙草の持ち方の癖まで似ていて、ああ、これは彼なんだ、もはや記憶に浮かぶことすらなかったこの小さな癖を私はまだ覚えていたんだ、無意識の記憶力はすごいなあと夢の中で私は思っていた。

毎度のことなのだが、夢の中の私は、現実の私の思考能力と判断能力を持ったままで変わらない。

そして、私は自分の夢の中にいるときには、自分がいま、夢の中にいるんだなあとちゃんとわかっている。

でも、寝ているんだ。

ただ、それが本当に夢なのか?本当に現実なのか?それは夢のような現実なのではないか?現実のような夢なのではないか?と聞かれると、急に全てが覚束なくなるのである。

私の世界は曖昧だ。外の世界はやたらに遠い。