Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録

早朝

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粘土を丸くまとめる。

そこにナイフを軽く突き立て、まっすぐ横に引く。

表面張力で粘土はすうっと薄く開く。

その瞬間で時が止まり、その状態を保持したまま、いま、まさに出来たてと言わんばかりのシャープな切り込みがずっとそこにある。

なんという造形美だ。

それが時折、またたく。

どうしてこのようなものが人間の身体にあるのだろう。

私は彼のまぶたを間近で、または横目で見るたびに感心したものだ。

神様がいるのなら、やはりナイフで人間の目を作るのかしらとそんなことをぼけっと考えながら。

 

記憶とは不思議なものだ。

忘れたり忘れなかったり、そもそも覚えていないことのほうがはるかに多かったり、覚えていることでもなぜこんなことを私は忘れずに覚えているのかと思うようなくだらないことだったり。

さして重要ではないから忘れるわけでもなく、とりわけ重要だから覚えているわけでもない。

そんなふうにばらばらに、いろいろに散らばった記憶と感覚とを、きちんと見ていこうとすると、私は途端に行き詰まる。

私は一体なにをそのとき感じていたのか。

記憶を何度も再生するが、判然としない場合ばかりだ。

ここ数年のことすら、掴んだ砂がするするさらさらと指の隙間を通り抜けるように、危ういというのに、その前なんて私は実はおばあちゃんなんじゃないかと思ってしまうほど遠い。

頭の歯車たちはそれぞれが違う方向にまわろうとし、ぐぐぐと力がかかり、いまにも歯車のどれかがぱりんと割れてしまうのではないかと感じる。

そう、私は思い出したくないのだろう。

そして、思い出せないのである。

 

昨夜はなんだかとても眠くて、またソファで寝てしまっていて、起きたら3時過ぎだった。

おにぎりを作って、食べてから川に行った。

犬の散歩やランニングの人々に紛れながらゾンビのように川辺をふらふらと歩きながら、ばらばらの記憶たちと感覚を結びつけようとしてみたが、何故か頭の中に浮かぶのは彼のまぶたのことだけであった。

なんの意味を持つのかまるでわからない。

なんでだろうと一生懸命考えたら、彼のまぶたの美しさに気が付いた早朝の気温のひんやりさと湿度が今とよく似ているからなのだった。

 

私は身体感覚、とりわけ皮膚感覚と記憶が結びついているらしい。

しかし、感情は大抵の場合、切り離されており、感情の予測と想像はできるが、実感がない。

だから、彼のまぶたも、というか、彼の存在までもが、本物だったのかわからなくなるのである。

彼がくれた本があって本当によかったと思う。

そうじゃなければ、彼は私の妄想の産物なのではないかと、私はいよいよ本格的に狂ったのではないかと、底なし沼に引きずり込まれてしまっただろう。

しかし、問題は彼だけではない。

私の人生そのものが私には本物だったのかよくわからないのだ。

見つけたかけらを拾い集めようとしても、なんだろうか、これは、とかけらを前に考え込んでしまうのである。

これはどのようなトラウマセラピーをしたら改善するのか、私には皆目見当がつかない。

難儀だなあ。

早朝の川は屋形船も通らないので、風が穏やかだと水面もしんとしているなあ。

そんなことを思った。