Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録

超えて

 

私はここ2年半ほど、多くの本を読んできた。

ルートは2方向。

彼が診断されている社会不安障害とは何か、彼はアルコール依存ではないか、彼がつらそうなのをどうしたらいいのかという切実な思いからのルート。これは精神医学、臨床心理学から脳神経学がベースだ。

もう一つは彼としたセックスの不思議さが一体なんなのかを調べるためにネットでそれっぽい情報を調べながらのルート。こちらはとにかくいろいろ胡散臭いことこの上なしで下世話なものも多く骨が折れたが、私はそれでも真面目に、怪しげな概念に飲み込まれることなく、一定の距離を保ちながら、調べ続けていた。タオイズムやクンダリニー(これ、結局クンダリニーなのか、クンダリーニなのかはっきりしない)関連、マグダラのマリアナグ・ハマディ文書、古代神話などがベースとなる。

このルートは決して交わることなどないと私は思っていた。

しかし、ある時、このルートは「解離性障害」という本にあった「シュジュゴス」という言葉から急接近した。

急接近したのち、それらはソマティックなセラピーというものを私が知ることで、隣り合わせとも言えるルートに変わった。

このブログに書いているさまざまな身体を使ったセラピーの有効性を体験する前から、私が興味を示すことができて、体験に行くことをいとわなかったのは、まさに後者のルートから身体と身体の交わりの知識を得てきていたからであり、セラピーよりも先にそれを彼とのセックスの中で体験していたからに他ならない。

それぞれのルートは私の中で『「精神」と「身体」』であり、『「論理」と「感覚」』でもあったのだと今は思う。

 

ただ、私は今、実質的に他者との間に「身体」と「感覚」を感じることはできない。

自分で自分の「身体」と「感覚」を感じることが細々とできるのみだ。

接触による恐怖感と不快感が大きな壁となっており、ソマティックなセラピーにも、日常のスキンシップにも凍りついてしまう。

もちろん「今、私はエステにオイルマッサージに来ているのである」というような前提がある時は、問題はないと思うのだが、今はちょっとこれもやだなと思うので行っていない。

ローゼンメソッドやハコミのワークショップの両方ともに恐怖感がやって来たので、なかなかに厳しいという印象?体感?である。

私はおそらく『「身体」「感覚」が解離しているということ自体』も解離させていたのだが、彼を媒体とし、その解離の呪いがとけていたというのを最近やっと把握しただけであり、どのように変化していくのかはまだわからない。

私はもしかしたらもう一生セックスしないで死ぬのかもな、まあ仕方ないかと思うというのが現状であり、方策もとにかくみつからないので、早い話が行き詰まっているのである。

 

今日はspiritual bookstore BOOK CLUB KAIに行ってきた。

ここは今年に入ってから、読んだ本の著者や行ったワークショップの先生のプロフィールに「トランスパーソナル学会」とやたら書いてあるので、なんだろうと思って検索したのがきっかけで知った本屋である。

行ってびっくりしたのは、大まかに棚ごとにジャンル分けされているのだが、その各棚ごとに私が読んで来た本が何冊かづつ必ず入っており、二つのルートを完全に網羅しているのである。

なんということだ…私は全然違うルートだと思っていたが、同じワールドだったんじゃないか…私は広義の意味でのスピリチュアルワールドをそれぞれ反対側からぐるっと一周してトランスパーソナル心理学に辿り着いたに過ぎないわけだ…とやや愕然としながらも、ゆっくりと本屋での時間を楽しんだ。

気になっていた本をいっぱい立ち読んで、今、私の中で最も熱いトランスパーソナル心理学の棚から「メタスキル」という本を買った。

私が数多くあるソマティックなセラピーの中でもハコミとローゼンメソッドにとりわけ興味を示したのはそこにはタオイズムがあったからである。

タオの本は何冊か読んだが、私と親和性が高いようで、私がいつも思ってることだ…と思うこともたくさんあるのだ。

そしてこの「メタスキル」という本はぱらぱらと読んだ限りではセラピストの「セラピスト性」というものを「メタスキル」と呼んでいるのだが、それがタオイズムと通じているというようなことが書かれているようだった。

そして、監訳はトランスパーソナル学会の人だった。

なるほど!この本が私にとっての二つのルートの合流地点なのかもしれない!と思ったので買うことを決めたのだ。

読むのがとても楽しみ。

 

先日は初めてトランスパーソナル勉強会にも参加した。

トランスパーソナルとは自己を超える、という意味であり、それがどのようなものかというような説明があった。

自己を超える、ということは、自己と他者や自己と世界の分け隔てがなくなることを表す。

それはしばしば至高体験、不思議な体験、臨死体験などで起こるという。

その後、それにより、生き方が大きく変容していく。

そういうことを包括した心理学がトランスパーソナル心理学、というわけだ。

勉強会の帰り道、私にとって、彼との体験は至高体験に当たるのかもしれないなと思った。

とてもブログには書けないようなことが本当にたくさんあったのである。

私はあっちにうろうろし、こっちにうろうろし、何度も自分がどこにいるのか何をやっているのかわからなくなり、何度も絶望し、その度に生きながらえている自分に驚き、なんとかこの2年を進んできたつもりだった。

しかし、それはトランスパーソナル心理学的には実に普遍的なルートなようである。

この呆気なさに笑ってしまう。自分の小心さにも笑ってしまう。

今も何一つ解決していないし、私は彼のことも私のことも結局どうにもできていないけれど、私の勉強は、決して間違ってはいなかったのだろう。

私は勉強を続けたい。

何度、行き詰まろうと、絶望しようと、普遍的なルートなのだと信じて。

私は私を超えてゆこうとしているのだと信じて。