Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録

歌う

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歌うこと、演技をすること、踊ること、身体を使うこと。

そういったことが私はとても苦手だ。

苦手というのか、できないというのか、しっくりくる言葉が見つからない。

途端にぎこちなくなり、身体は全く動けなくなり、まるでロボットのようになってしまう。

音を外さずに歌うことはできる。台詞を覚えることはできる。フリを覚えることもできる。動作を観察して真似することもできる。

しかし、どれもびっくりするほど、うまくできない。

まさに棒読み、棒立ちである。

言いようのない恐怖がそこに立ち現れるのだ。

聞かれる、見られるということに私は異様な緊張がある。

今までは歌うこと、演技をすること、踊ること、身体を使うことは全て、自分の身体で表現することだから、私はそれが苦手なのだと思い込んでいた。

しかし、私は、本当にそれが苦手なのだろうか?

私が苦手なのは、他者の視線を浴びることなのではないか?

 

秋の校庭。私のクラスは体育の時間だった。

鉄棒の前に全員が背の順に並んで座る。

私は背が高いからいつも後ろから数えて2番目とか3番目だった。

男子の後に女子。みんな課題を難なくこなし、一人1分もかからない。

私は、といえば、体育座りで列の終わりの方に並んでいる。

刻一刻と迫る、私の課題の時間までに私の手のひらと足の裏はものすごく冷たくなると同時に汗でじっとりとしてくる。

緊張で頭を動かすことができない。

太陽の光を反射し、鈍く光る鉄棒と課題を受ける人を見守る全員。

名簿に数字を書き込む先生。鉄棒の後ろ側にある大きな桜の木。

私の身体は二の腕に力が入り、本当にロボットのようだ。

私の番が来る。私は鉄棒を掴む。生暖かい鉄棒が気持ち悪い。

汗の滲んだ手のひらに鉄棒が感じられ、私は血のような匂いのする鉄棒を握った後の手を想像して、動くことができない。

どのくらいの時間が経ったのかわからない。

とてつもなく長く感じていたが、1分もなかったのかもしれない。

先生は困ったように、私の次の人たちに先に課題をするように言った。

鉄棒のすぐ横で棒立ちになりながら、私は彼女たちを見た。

彼女たちは身長の高さもあってか、難なく長い足を地面から蹴り上げ、くるくると回る。

どうして彼女たちと1cmも変わらぬ私はあのようにできないのか。

私は再び鉄棒に向かう。恐怖で硬直する。

男子たちのため息が聞こえる。

そりゃそうだ、私の課題が終われば、残りの時間でサッカーでもドッジボールでもできるからだ。

飽きている人たちが思わず体育座りの足を動かすことで聞こえるスニーカーと校庭が擦れるずりっとした音が聞こえる。

先生の困惑、クラスメイトたちの早くしてよというようなうんざりした気持ちを私は背中に感じながら、ますます動けない。

結局、チャイムが鳴るまで、私は一人で鉄棒を握りしめていた。

 

未だに悪夢で見る小学校の時の体育の授業だ。

今も書きながら私の手足は同じような反応を示す。

跳び箱もそう。跳び箱まで走って、手を付くが、飛ぶことができない。

わら半紙のような濁ったグレーで薄汚く、埃っぽいあの跳び箱の手を付くところが私はどうしても嫌いだった。

だから飛べない。飛びたくない。できるなら触りたくない。

なんで飛ばないの?飛べないの?皆、そう言うが、正直なことは言えなかった。

怖い、としか言えなかった。

当時の私にとって体育とは公開処刑と同等のものだった。

触りたくないと思うものを触りたくない。

その自由すら許されぬ世界で、本当の気持ちを言えない私は処刑され続けた。

 

本当の気持ちを言っていい。表現していい。

それがどんなに他者から奇妙に見えてもいい。

日常的に処刑され続けていた小学生の私はある時、テレビの歌番組でそんなメッセージを受け取ることになる。

それは忌野清志郎坂本龍一の「いけないルージュマジック」のMVだった。

オンタイムだと私は3歳なので、多分、昔の曲特集みたいな時に流れたのだと思う。

男の人がお化粧してもいいんだ。

お金を楽しくばらまいて遊んだっていいんだ。

男の人同士でキスをしてもいいんだ。

子供の私は最初は驚いて、衝撃だったけれど、すぐに好きだなと思った。

いけない、と歌う歌は、いけないことなどない、と私に歌っているようだった。

 

私は一人でなら、本当の気持ちを表現できるだろうか。

そのことがずっとずっと心に引っかかっている。

まだ試してはいない。

私が考えているのはヒトカラだ。

私はカラオケを歌わない。行かない。でも、行ってみようかと考えている。

何を歌おうか、iTunesに入っているたくさんの曲たちを見る。

選ぶ基準はこれは歌えなさそう、難しそう、これなら歌えそうかな、ではないのだ。

私は今、どれを歌いたいのか、だけだ。

彼はとても歌が上手い人だった。私が聞いてきたカラオケを歌う人の中でダントツで1番である。

誰かの真似とか歌い方を似せるとか大げさとかではなく、彼のままでさらりと上手いのだ。

その時、その歌は誰の歌であっても、彼の歌だ。

どうしたらそんなにうまく歌えるの?と私。

お腹から歌うの、と彼。

ふうん、お腹からねえ…

彼はその時、こないだは斉藤和義の「やさしくなりたい」を歌ったと言った。

彼が歌い始めると皆がびっくりしたらしい。そりゃそうだろうなと思う。

やさしくなりたい、強くなりたいと連呼する曲を彼はどういう気持ちで歌っていたのか。

私は忌野清志郎が歌う方の歌詞の矢野顕子の「ひとつだけ」を歌いたい。

上の動画で矢野顕子は私たちの曲を私たちのために歌う、と言っていた。

私も二人を習って、私のために歌いたい。

私が一番欲しいのは、私の心の黒い扉を開く鍵であり、どれだけ解離していようと私は私に私を忘れないでいてと思っていると。

私は私に、そう歌おう。

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