Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録

アンカー

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私のことを灯台のようだという人がいた。

私よりも一回り近く年下のその人の話を私はひょんなことから聞くことになり、それからは不定期に時折、2年ほどかけて聞いてきた。

その間、その人にはいくつかのライフイベントがあり、私はそれに対してのその人の思いをただただ聞いていた。

今はその人は自ずと山を登りきり、その世界で日々を楽しんでいるようだ。

何か辛いことやうまくいかないことがあったり、この話をするのは私がふさわしいと思う話がある時、彼は灯台のように私を思い出すのだそうだ。

ここに行けばあるんだよな、って向かって行くと、やっぱりあるんだよ、その安心感がすごい、と。

それを聞いた時は、ありがたいと同時に、これだけふらふらさまよい、流されまくってる私が灯台に見えるだなんて、と笑ってしまったけれど、今日、ふと、私は本当にさまよい、流されていたのだろうか、と改めて考え直すと、違うのかもしれないという気がしてきた。

 

先日、facebookを開いたら、ニュースフィードに上に載せたカードが出ていた。

友達がその投稿にいいねをしたようで、アクティビティとして私のニュースフィードにも表示されていたものだ。

私はこのカードにしばし見入って、5月の心理学講座でのフォーカシングのワークのことを思い出していた。

そのとき、フォーカシングをして、出てきたのは、私の背後にあるじっとりと濡れた洗濯物のようなずっしりした質感。

それがまるで私の服の裾を引っ張るようで、私はそのせいで前に進めない、邪魔だという感覚があった。

でも、感じ続けていたら、それは私の邪魔をしているのではなく、私があらぬ方向や間違った方向に行かないように「ねえねえ、それでいいの?本当にあってるの?」と確認させるためにいるのだという感じがしてきた。

私はとても慎重な性格(だと自分では思っている)なのだけれど、ああ、これは私の中の慎重さなんだと感じられた瞬間、なんだかじっとりがとても誇らしげになって、可笑しくて、実際笑ってしまった。

衣類がずっしりじっとり濡れてることは確かに気持ち悪い。

ただ、とても暑い夏の日の突然の夕立でスニーカーも下着も完全にぐしょぐしょに濡れてしまったような時はなんだか駆け回って遊びたくなる気持ちよさがある。

そこまできたら、濡れた洗濯物のようなずっしりじっとりを私は可愛く、そして、素晴らしいことだとも思えてきた。

濡れててくれてありがとう、とも。

濡れていることでそれは役割を果たすことができるのだから。

カードの彼女たちは花も散るような強い風、強い雨の中、足元は水たまりをびしゃびしゃとさせながら、楽しげに、官能的に踊る。

カードの名前はCELEBRATION。

びしゃびしゃだろうと、ぐしょぐしょだろうと、じっとりだろうと、それを素晴らしいと思えば、いつだってセレブレーションなんだ、と思うと、気づけば、私はやたら楽しい気持ちになっていた。

そして、そこにある曲が思い浮かんできた。

土砂降りの中、仲直りをするという歌詞の曲だ。

この曲はよく考えるとMVも雨の中、踊りまくっている映像だった。

私は、これを私の背中のずっしりじっとりとの本当の意味での仲直りのように感じられ、なんだか感動してしまった。

 

ところが、それで終わりではなかった。

今日はそのことに関する更なる「感じ」がやってきたのだ。

思い浮かんだ曲は、台風で土砂降りの日に、私が「なんだか無性に不安になるんだよなあ」と彼にいった時に「雨にまつわるいい曲でも聴けば?お前が好きなキリンジにもあるだろ」と彼が例に出した曲でもある。

「あー、ずぶぬれのパンツの曲だ」「そうそう」

あの時はそんなどうでもいいやりとりをした。

明らかに、心底、どうでもいいと思うのに、私はそれをちゃんと今も覚えている。

それどころか、私は彼のことを本当にびっくりするほど、よく覚えている。

忘れよう、なかったことにしよう、もういいじゃん、あんなやつ、めんどくさい、邪魔くさい、このことさえなければ!、おかげで私の人生は完全に行き詰まっているんだぞ!と思いながら。

そう、ずっしりじっとりと、私の人生における彼の存在への気持ちは似ているのだ。

そこまでくると、急に霧が晴れたように、ずっしりじっとりと同じ構造が彼に見えてきてしまった。

私の人生における彼の存在は「その後に起こる私の人生の激しい混乱という暴風雨」の中で、私という船が流されないようにするだけの充分な重さがあったのだ。

確かなアンカーとしての役割だ。

 

 

超えてで書いたような危なっかしい、目には見えない世界を私がぐるりと回るだけで済んだのは/途中でどこかに流されて宗教やら概念やらにはまらなかったのは、決して私の能力だけではない。

ハコミセラピストは実際、私にたった2年ほどの独学の勉強でここまでくるとは、ほぼ最短最速ではないか、あなたは勘が良いのか、賢いのか…と言った。

私は確かに勘が良い部分はある。でもそれだけではなく、絶対的なアンカーもあったのだ。

私は、私に見える彼(それは私が彼に投影している私とも言えるのだろう)をどうしても放っておくことができなかった。

それは誰がなんと言おうと、どうしても、なのである。

なんとかしなければ!という思いが、私をどこに進むべきか慎重にさせたのだ。

だから、私は、一見さまよっているようだったけれど、ずっと同じところに恐ろしく重いアンカーを降ろし、目には見えない世界を一生懸命、目を光らせて、ぐるりと観測していたという方が正しいのかもしれない。

その姿は確かに灯台のようである。

 

なんとかしなければという思いは、なんとかしたいという強い欲望である。

結局のところ、それは叶うことはないのだろう。

他者が他者を変えることはできないのだ。

しかし、もう私は元には戻れない。

勉強をして、わかったことがある以上、元の生活にも戻れない。

私にできるのは二つだけだ。

私はこのまま、海の真ん中でアンカーを降ろしたまま、灯台のように在ること。

アンカーを引き上げて、どこかもっと気持ちの良い海を求めて、風に乗って行くこと。

私はどちらを選ぶのだろう。

もしかしたら、選ぶまでもなく、実際の生活では、その二つの選択肢は結局、同じ行動のように見えるのかもしれないが。

今はただ暴風雨の中を踊ろう。揺れよう。

私は決して流されることはないのだから。