Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録

平坦な戦場で生き延びる人達へ

昨日はセラピストビレッジの勉強会に参加した。

マイクロマネジメントがテーマだ。

正式な心理学用語ではないそうだが、ダブルバインドやミスティフィケーション、投影性同一視、三角コミュニケーション、肥大化したナルシシズムによる自己保身のための正当化や、被害者を装った形での他者攻撃などに代表される共感不全や他者コントロールを表すものらしい。

三角コミュニケーションは先生のブログに詳しいのでリンクを。

ameblo.jp

投影性同一視などは誰でもしてしまうものなのだが、その他は身近に常にやる人がいると本当に消耗するものである。

これを常にやるのが親だった場合、ネグレクトや暴力、性虐待などの目立ったものがなくとも、充分に心理的虐待と言える。

このようなことをする親のいる家庭で育つと、子は常に緊張していないとならず、将来的に複雑性PTSD解離性障害慢性疲労症候群うつ病となる可能性が非常に高い。

しかし、この手の虐待は「これがトラウマ」というような大きなエピソードがないため、本人にも把握しにくく、症状だけがあるように見える。

診断する医師にもそれは同様なため、重ね着診断やら誤診やら…となりがちだろう。

このようなタイプの被虐者は「しなければならない」しか見えず、育つ。

「やりたい」を共感も受容もされず育つため「したい」がわからない。

人生はただただ「しなければならない」ことの連続となるわけである。

感情を切り離し、生きている。

 

私の好きな漫画家の岡崎京子のリバーズエッジという作品にはある詩が引用されている。

ウィリアムギブソンという人の詩だ。その一部を載せる。

深い亀裂をパトロールするために

流れをマップするために

落ち葉を見るがいい

涸れた噴水を

めぐること

平坦な戦場で

僕らが生き延びることを

私がこの漫画を読んだ時、私は私が解離性障害であるとも、被虐であることも知らなかった。

しかし、この詩は私の中で忘れられないほどのインパクトをもたらし、私のいまいる場所も間違いなく「平坦な戦場」なのだと、はっきりと意識できた。

今の日本、ここは決して本物の戦場ではない。

しかし、共感不全の中で育った私、彼ら/彼女らには平坦な戦場そのものなのである。

詩を読み替えてみよう。

家族と自分にある目には見えない深い亀裂をパトロールするために

家族の気まぐれでいつ行われるか予測できぬ虐待の流れのマップを作るために

家族という名の逃れられない枯れた噴水の中を風で回る落ち葉のような僕らを見るがいい

平坦な戦場で僕らが生き延びることを

 

マイクロマネジメントをしてしまう人の中には「強いコントロール欲求」があるからなのだが、コントロールしたいのは、実は相手のように見えて、自分の中の恐れである。

他者をコントロールすることで、自分の中の恐れもまたコントロールできるだけの力の能力も自分にはあると確認したいだけなのだ。

他者を使って万能感に浸りたいだけのお子様だと言える。

このような人たちを私がいま行っているカウンセリングセミナーでは「成人学童期」と呼んでいる。

共感性が低く、自分のことしか見えていない人たちだ。

自分の世界だけで生きているのである。

決してサイコパスでもパーソナリティ障害でも、知的障害や知的境界でもない。

でもサイコパスのようでもあり、パーソナリティ障害のようでもあり、知的境界のようでもあるわけのわからない人たちである。

表面的には社会に、現実に馴染んで生きている。

会社にも行くし、成績も良かったりする。

そのため、余計にマイクロマネジメントされる側の人は「私がいけないのかも」「私の頑張りが足りないのかも」とマインドコントロールされてしまい、自信も、肯定感も、存在理由すらもボロボロになってゆく。

 

私はいま、噴水のエッジから、枯れた噴水を見下ろしている。

私を育てた、愛しく、憎い、あんなに果てしなく広大に思えたのに、存外ちっぽけな平坦な戦場であった枯れた噴水。

枯れた噴水の中、風に吹かれ、回る落ち葉のような、かつての私の手を引いて、噴水のエッジを登り、戦場を逃れようとする私の手は爪が剥がれ、血が滲んだ。

そんな私の手を、幾つもの人の手が少しづつ引き上げた。

だから、いま私はここにいる。

枯れた噴水、平坦な戦場はこの世にはない。

脳の中に、心の中にあるのみだ。

だから、そこから出よう、出たい、そのように願いさえすれば、出ることはできる。

それを願う人の手を引き上げる手の一部に、この記事がなれば、私はいいと思っている。