Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録

豆苗と長ねぎ

最近、私は豆苗と長ねぎを育てている。

育てているなどと言うと、いかにも頑張ってる感じだが、実のところ、私はほぼなにもしてない。

いずれも一度料理に使って切ったあとのものを水に入れるだけである。

単に豆苗はホーローのバットに水を張り、そこに入れて、5cmほどになった長ねぎも小さな深めの小鉢に水を入れて、そこに差してるだけだ。

それだけなのに、豆苗は朝は2cmほど伸びていただけなのに、にょきにょきと育ち、夜には8cmくらい伸びていたりする。

ねぎも新たな芽がぐんぐん伸びる。味噌汁に入れたり、冷奴にのせたりするのにちょうどいい鮮やかな緑のねぎだ。

こうして、植物の生命力を日々、目の当たりにし、私はそれに感動し、畏怖し、ありがたく思いながら、おいしく食べている。

 

あのような強い、ただただまっすぐな生命力を私は日々食べているのである。

植物も肉も魚もすべて生命力と時間と気温や水分(それはつまるところ、地球のありがたみなのだが)の塊だ。

更に、それらは、育てたり、取ったり、運んだり、売ったり、様々なひとのちからが介在し、我が家まで来る。

なんという莫大なエネルギー!

ねぎ1本も豆苗1袋もだいたい98円だ。

こんなに莫大なエネルギーがたったの98円!

私は本当に驚いてしまうのだ。

そのような視点で見たとき、なんというか、あまりにお買い得品すぎて、心底、びっくりしてしまうのである。

 

かつての私は洋服や装飾品が大好きで(もちろん今も好きなのだが)、とりわけ好きなのはマルニというブランドの服だった。

アーティスティックなのにもかかわらず、どこかかわいらしく、私にはインスピレーショナルに感じられる、そんな服が多いのである。

しかし、高い。いまとなってはなんであんなに買っていたのか、よくわからない。

確かに今みても素敵さに変化はない。

ただ、今の私にはこのブラウスは豆苗が500袋…と思うと、豆苗のほうがよほどありがたいもののような気がしてしまうのである。

 

そのようになった直接のきっかけは、ワンピース4枚で夏のおわりの1ヶ月を過ごした経験が大きい。

彼に会ったのは7月の終わりで、私はその何ヶ月も前から8月の終わりに東京を離れることが決まっていた。

離れたのちに私は自分でもよくわからぬ状態に突入し、解離性遁走をした。

そのときに持って行ったのはワンピース4枚だったというわけである。

どれも安価な、モールに行けば買えるものだ。

いまの私には、当時のはっきりした記憶はない。

なぜ、そんな安いワンピースばかりを選んだのか今でもわからない。

だいたい、このようになるとき、私は事実は思い出せるのだが、自分がなにを思っていたのか、まるで思い出せないのである。

けれども、私はなにも困らなかったし、毎日快適だった。

たった4枚しかなくても洋服を選ぶのは楽しかったし、たった4枚しかないから迷うこともなくハッピーだった。

もちろん、いつも4枚を選べたのは、当時まだ所有していたマンションの浴室乾燥と広くて風が通るベランダに助けられていたわけだけれど。

 

その経験から私の服への、物への価値観は大きく変わった。

引越しにより、すべての荷物は搬出され、なにひとつない、がらんどうだったあのマンションでのひとつきは私の人生で最も身軽で、最もシンプルな時間だった。

それでも暮らせるんだということを私は身をもって体験し、理解したわけである。

そして、そんな人生のなかの時間に居合わせたのは彼だった。

時折、こんな言い合いは誰ともしたことがないほどの激しい言い合いをし、そうかと思うと、のんきに何かを食べに行ったり飲みに行ったり、あとは何故かよく歩いていたように思う。

その後、私は2年間、一人暮らしをし、彼と音信不通になったり、週末ごとに会ったり、音信不通になったり、ふと現れたり、音信不通になったり、また現れ、そして音信不通になった。

彼も私も歩くのが多分好きなんだろう。

よく歩いたなあという記憶がある。

彼はすたすたと先に行ったりしない。

歩くのがのろい私と同じスピードで、話しながら歩く。

もし、いま、同じようにできるなら、私は豆苗と長ねぎの話をしたい。

豆苗と長ねぎ、すごいんだよ、そしてさ、そういうエネルギーに私が気付けるようになったのは、あなたのおかげなんだよ、って。

彼はお前、ほんと変わってんなと言うだろうか。

よかったよかった、成長したじゃないかとふざけて笑うだろうか。

いつかみたいに。

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