Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録

無題

私には希死念慮はない。

誰にも迷惑をかけずに死ぬのって何度真剣に考えても、現実的にすごくすごく難しいことだから。

殺人の完全犯罪は難しいように、自分殺人事件を完全犯罪にするのも難しい。

私の考える範囲では、もっとも迷惑にならなそうなのは、人のいない森に行って死ぬことだった。

しかし、どんなに山奥でも結構、人はいるものなのである。

白骨だろうが、腐りかけだろうが、フレッシュだろうが、森の動物に食べられてようが、誰かがそれを見つける可能性の方が高い。

すると、やっぱり誰かの手がかかる。

ここでの手のかかり方はすごいめんどくさいことは簡単に想像がつく。

警察も大変だし、死体を綺麗にする人も大変だし。

そして、何より森は美しいのだ。

私の死体が伊島薫の死体のある風景の写真並みに美しければ、それもありかなと思うが、どう考えても美しくないだろうことは簡単に想像がつくので、美しい森に美しくない私の死体の絵を思い浮かべるだけで、猛烈に恥ずかしくなってしまう。

 

自殺する/自殺を考える人って、基本的にひとりで頑張ってきた人で、それでいよいよもうどうにもならない、と感じたからなんだろうと思う。

でも、何があったにせよ、その頑張ってきた生き方の最後の最期に「すごいめんどくさい人」になる死に方をあえてチョイスすることが、私からすると、どうしても理解できない。

最後の最期に「すごいめんどくさい人」になれるのは、自分の頑張りに対して、中途半端なプライドしかなかったということでもある。

そして、死んでしまった以上は「すごいめんどくさい人」のまま、生きている誰かに記憶され続け、いつか忘れられるのである。

はっきり言って、それまでの頑張りが完全に無駄である。

そんなことになるなら、そもそもが、ひとりで頑張るより、すごいめんどくさい人として、みんなに常にどうしようどうしようああああああって叫びながら生きる生き方のほうがはるかに向いてたんじゃないかと思う。

生きていれば「すごいめんどくさいけど面白い人」とか「すごいめんどくさいけどたまにいい人」くらいにはなれるかもしれない可能性があるのである。

だから、私は自殺をした人に思うことはいつも同じだ。

どうせなら、生きてるうちにめんどくさい人になってみりゃよかったのに、だ。

 

まず、死にたくなるほど、追い詰められた時に自分のことしか見えなくなる人というのはそもそもが自分勝手で厚かましい。

自分勝手にひとりで頑張って、ひとりで悲観して、ひとりで死のうとするのは、圧倒的なまでに自分しか見えていない。

演者、自分、観客、自分、で自分の物語にだけ巻き込まれている。

周りの人や自分の死体を処理する人の気持ちは完全にゼロ!

どんだけ自分大好きなんだよと思う。

自分大好きで自分勝手で厚かましくてめんどくさい、なんて、私にはもはや才能に見える。

それは、他者を巻き込む才能なのだ。台風のようにエネルギーを発散してなんぼ、の人のように見える。

そのエネルギーに自分だけを巻き込もうとするから、ポジティブな時はいいかもしれないが、ネガティブな時は希死念慮が出るのも当たり前だろう。

早い話がエネルギー過多による、自家エネルギー中毒状態なのである。

こじらせ系なる言葉があるが、こじらせてる人というのはだいたいみんな私から見ると自家エネルギー中毒に見える。

 

遅かれ早かれ、人は死ぬ。

これは言い換えれば、生きてる人はいつでも死ぬ可能性があることをさす。

いつでも死ぬ可能性があるということは、特別に策略を練らなくても、それは明日かもしれないし、明後日かもしれないということである。

そう思うと、どんなに死にたくなった時でも、わざわざ苦労して練炭とか山に行く装備とか集めるのもだるいな…と私は思えてくるのである。

それに、実際のところはいつでも死ねる。

私は今日死んだと思えばいいのだ。明日がおまけの1日だ。

おまけの1日もどうせ今日と同じだよと思うだろうか?

もっと悪い1日になるよと思うだろうか?

残念ながら、それはおまけの1日を生きてみないと答え合わせはできない。

それが生きるということなのだと私は思う。

人は生きながらに何度でも死ねるし、何度でも生きることができる。

死にたい人は何度でも死ねばいい。そして、何度でもおまけの1日を味わったらいい。

そもそも生きてること自体、本来はおまけのようなものなのだ。