Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録

映画「怒り」と高間しのぶ「孤独と愛着」について

はてなブログで読者になっている方のブログで知った高間しのぶさんという臨床心理士の書いた本、「孤独と愛着」がアマゾンから届き、一気に読み終えた。

 

先日の日記に書いた通り、映画「怒り」を見てから、私は物の見事に不安定になった。

私の中の記憶とリンクする部分があったから、というだけではない。

私が2年かけて勉強してきたことが凝縮されたような映画だったからである。

原作を読んでいないが映画を見る限りでは、私には以下のように見えた。

3つのストーリーが並行して描かれるので、登場人物をストーリーごとに分ける。

 

森山未來が演じる田中信吾は解離性障害、恐らくは被虐者というマイノリティ

広瀬すずが演じる小宮山泉は恐らくは母が被虐者であり、自らはレイプ被害者というマイノリティ

*佐久本宝が演じる知念辰哉は日本国内において、ある意味では日本に”社会的虐待”とも言える扱いをされている側面もあるといえる米軍基地のある沖縄に住むマイノリティ(という見方ができる)

 

妻夫木聡が演じる藤田優馬は母子家庭(母は劇中でホスピス入院中→病死となり、唯一の家族を失う)、同性愛者というマイノリティ

綾野剛が演じる大西直人は施設育ち(恐らくは被虐、あるいは愛着障害)、心臓に持病があり長くは生きない、同性愛者というマイノリティ

 

宮崎あおいが演じる槙愛子は軽度知的障害、風俗嬢経験ありというマイノリティ

松山ケンイチが演じる田代哲也は両親自殺、両親の借金の権利がヤクザに売られ、その取り立てから逃げるように暮らしており、警察にもどこにもその問題を相手にされないという"社会的虐待"とも言える事態のマイノリティ 被虐の心性に近いものを持っている

 

トーリーの中で、マイノリティたちは不思議と引き合い、繋がろうとするが、繋がりきれない。

最後のストーリーのみ最終的に繋がることができていたが、それは田代哲也には愛着障害はないからであろう。

私から見ると、田代哲也は両親との間には愛着があったはずなのである。

その両親の自殺と借金の問題を誰にも助けてもらえずに、一度大きく揺らいだ世界/他者への信頼を、最後の最後に槙愛子とその父親に向け、求めることで再度繋がることができるという話になっているから。

 

殺人事件の犯人は果たして誰か?という疑惑の中、それぞれの話は進むが、これは「犯人探し」ではなく、それぞれの「基本的信頼感」の揺らぎと再生を描いている物語なのである。

そして、タイトルの「怒り」という言葉の奥にある「悲しさ、苦しさ、さみしさ」の物語なのである。

 

「孤独と愛着」の中に、被虐者はパートナーに知的障害や発達障害を持つ相手を選びやすいと書いてあった。

被虐者の親には知的障害や発達障害の人が多いために、被虐者はどんなに辛くとも、似たようなタイプの人といることに慣れているし、それが当たり前だと思っている場合が多いため、と書かれている。

もちろんそのパターンは多いだろうが、田代哲也と槙愛子の間には「安心感」があった。

槙愛子の天真爛漫さ、幼さ、素直さに、頑なに生きてきた田代哲也は心が解けたのだろう。

藤田優馬と大西直人の間にもそれとは違った形だが「安心感」が描かれる。

知念辰哉、小宮山泉、田中信吾のそれぞれにも。

それは各者が各者のマイノリティとしての孤独を理解しあった瞬間なのだ。

しかし、安心の中で育たなかった人にとって、安心は不安なものでもある。

安心を描いたのちに3つのストーリーは全て不安へと急激に舵を切る。

振り子のように、安心から、不安へと振れてゆくのだ。

 

私と彼も同じだった。

互いの立場もあり、安心と不安の両極をもっと激しく行ったり来たりではあったが。

まるでアメリカンクラッカーだ。

くっつくために離れるのか、離れるためにくっつくのか、わからぬアメリカンクラッカー

二つの玉が、互いに一番遠くに位置した時にフラットになるアメリカンクラッカー

 

映画の中で藤田優馬が大西直人に会ったとき、直人の横顔が大きく映る。

そのシーンで、私は、ああ、私が彼と初めて会った時と同じ顔だ、と思って、心臓を射抜かれたようになってしまった。

手のひらも足の裏もじっとりとして、胸が早鐘を打ち、頭が真っ白になってしまった。

彼と綾野剛の顔が似ているせいもあるだろう。

でも、あの表情。あの目。

この人はなんでこんなに悲しそうで寂しそうなんだろう。

そして、私はこの人をよく知っている。

私はあの時、突風が吹き抜けたようにそう思ったのだ。

 

「孤独と愛着」の最後には谷川俊太郎の詩の一部が引用されている。

万有引力とは ひき合う孤独の力である”

本の表紙は美しい海の写真だ。

「怒り」は同じような沖縄の美しい海で叫ぶシーンで終わる。

地球と月の万有引力で満ちて、引く海。

まるで、孤独な人と孤独な人が万有引力で繋がり、繋がりきれぬのを表すかのよう。

私は静かに悲しい。そのように感じてしまう自分を。

いや、そのような宇宙の摂理を?