Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録

So what?

最近、リミッティングビリーフについて考えている。

人にはそのトラウマとセットのようにリミッティングビリーフがあるという。

だいたいこれは「刷り込まれた」「知らず知らずのうちに思い込まされた」などと言われていることが多い。

でも、本当にそうだろうか?

まるで無理やりに押し付けられ、持たされた重い荷物のような扱いだ。

確かにそうも見えるが、人間は本当に必要のないものは取り込まない。

腐った食べ物は匂いを嗅いで判断し、口にしたら吐き出す。

そのようにできているのだ。

つまり、どのような不都合なビリーフであれ、私たちは生存戦略として、必要なこととして、「選んだ」り「学んだ」りしたのではないか?

そこでは受動的だったわけではなく、いつだって能動的だったのではないか?

重い荷物を持たされたのではなく、引き受けたのではないか?

そして、その荷物はその人を鍛え、強くしたのではないか?

必要だったものが、時間の流れで不要になることがあるように、ビリーフもそうなんですよ、無力な子供のときと今は違います、要らないなら捨てましょう、手放しましょうともよく言われている。

これも、本当にそうだろうか?

確かに本当に要らないものもあるかもしれない。

でも、本当に大切だから、手元に残し続けているものもあるかもしれない。

人生を不都合にしているようにしかみえないガラクタだから捨てるべきだと多くの人が感じても、持ち主にはやっぱり宝物である理由があるのかもしれない。

どのような痛みも重みも宝物としたまま、進んでゆく人もいるのかもしれない。

それこそが前に進む原動力となる人もいるのかもしれない。

 

決して少なくない数のカウンセラーやセラピストがビリーフをチェンジとかリセットとか書き換えとか呪いの解放とか書いて、さもそれが良いこと、素晴らしいこと、成長すること、生まれ変わること、楽になることと喧伝している。

心理発達もまた崩壊ののちに再構築し、次へ進むという。

先日の「孤独と愛着」では、ひとつのファンタジーが崩壊したさきに、新たなファンタジーをつくる、とあった。

でも、私はどうしたことだろう。

何度も崩壊し、多くを手放すほど、このルートは何かが違うと、どうしても強く思ってしまうのだ。

私と同じ道をたくさんの人におすすめできるか、歩ませたいと思うかと言えば、間違いなく、全力で、否、だ。

私の前には、ぽっかりとした不在だけが広がる。

ほら、その新しくできた空間に、好きなものを置いていいんですよ、好きな人を呼んでいいんですよ、ほら、あなたの素敵な理想の世界を!と言われても、そんなのは私の脳の中の箱庭の中身が変わるだけに過ぎないことを私はもう知っている。

私は箱庭のからくりがわかった以上、箱庭を再度作る意味がわからない。

どんなに自分に都合のいい箱庭になっても、それはやっぱり箱庭なのだ。

行き着くところもどうせ箱庭に過ぎないのなら、本当にかつての箱庭の崩壊や中身の手放しは必要なことだったのだろうか?

既存の箱庭を維持しながら、進む方法はなかったのか?

ぽっかりとした、なにもない空間で私は自問自答し続けている。

 

私は誰かの信じる世界があるなら、それをできるだけ保持したい。温存したっていいじゃないか。

正解は崩壊や手放しや書き換えだけじゃない。絶対に。

そういうありかたは外科手術なら「全摘」のように思う。

外科と違って、メンタルは何度も手術して、少しづつ摘出するが、結局全摘だ。

患部がなくなれば、確かに楽にはなる。

でも、その摘出した部分はかつての私であり、様々な思いであり、それがあったから私は生きてきたことに間違いはない。

必要なのは箱庭の崩壊でも中身の手放しでも書き換えでもない。

箱庭とその中身に意味の与え直し、読み直しをすることこそが必要なことなのではないか?

それは摘出しなければできないことなんだろうか?

摘出せずにもできるのではないだろうか?

私は箱庭から摘出された私を見ている。

箱庭に何かを入れるとしたら、私は摘出された私を入れ直したい。

これは過去に戻りたいという意味ではないし、後悔しているわけでもない。

ただ、摘出された私は要らない私ではなかった、それだけがわかったのだ。

箱庭の形や大きさや中身が問題だったわけではないのではないか?

痛みだけが問題だったのではないか?

何故、私は今も痛いのか?

なにが痛むのか?

 

医学は進歩する。

開腹手術ではなく、腹腔鏡下手術が増え、患者の肉体的負担が減った病気も少なくない。

建築技術も進歩する。

多くのエネルギーとお金と時間を必要とする、家を壊し、建て直すではなく、リノベーションによって、住みやすさを新築同様のレベルにできるようになった。

なぜメンタルセラピーは同じように進歩しないのか。

メンタルを病むほどつらくかなしくさみしくがまんをしてきた人たちに、楽になりますよと言いながら、何故、更につらい道のりを歩ませるのか。

何度も何度も、何年も何年も、時間とお金を費やすことは本当に幸せなことなのか。

長い人生を振り返るのだから時間がかかりますよ、というのは、嘘だ。

たった一本の映画が、たった一曲が、たった一人との出会いが、誰かの人生を変えることだってあるのが世の中だし、それだけで変われるのが人間なのだ。

いまのセラピーでは、一人きりで生きていて働かねばならぬ人はその時間も、数多あるセラピーに関する情報を精査する時間すらも満足に取れない場合もある。

お金がない人は救われない場合もある。

それがセラピーの現状だ。

何かが違う、そう思うのは私だけなのか。

 

きっ、と空を見つめ、ぐぐっ、と顎を引いて、両の手にはじりじりと弓と矢の緊張を感じ、耳は遥か遠くの音を追う。

その刹那に目を閉じ、見えぬ的に向かい、覚悟し、息を止め、矢を放つ。

そうして、誰かの人生の意味を射抜く。それだけで、その人のすべての痛みのカードはひっくり返る。

そんなセラピーだってあるはずなのだ。絶対に。

私はそういうものをずっと探しているような、そんな気がする。

私は性格が悪い。どんなことも疑う。 どんなことも判断できるまで、疑い続けながら材料を集めまくっている。

だから、私は私のことをなにも信じられない人だと思っていた。

これは「信じてはいけない」というリミッティングビリーフってやつだ。

でも、それは違う。

疑うことで初めて見えてくる世界もあるということを私は知っているし、知っているから信じているのだ、確実に。

なにも信じない、信じられない、信じるべきではない、そういう私のリミッティングビリーフは、私を決してリミットなどしていない。

それがあるから、見えてくる世界が私の眼前にははるかに確かに広がっているのだ。

リミッティングビリーフもまた単なる箱庭なのではないか?

リミッティングビリーフが問題なのではなく、そこにある痛みだけが問題なのではないか?

私はそう思っているのである。

リミッティングビリーフ?だからなんだっていうのよ?と開き直りながら。