Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録

意識と身体

マインドフルネスを学び、やってみるたびに、これは意識の観察をする意識を養うことなのだなと思う。

確かに、それを続けると後者の意識が育ってくるのか、そちらに意識の重点が移動している時間が長くなり、自分の子どもっぽく短絡的で定型的な反応をする意識をいやいや、そうじゃないでしょと思い直す余裕が生まれてくる。

定型的な反応をするのが私たちの普段の意識だ。

マインドフルネスで起こる意識はコントロール可能でちょっとした変性意識状態と言えるだろう。

通常よりも一歩、無意識に近づいた意識状態を通常の意識と別に作り出し、共存させるテクニックである。

 

この変性意識状態というのは、私の主症状である離人感、解離状態と同じである。

しかも、観察は私の得意なことだ。

離人感を保持したまま、観察するなんて日常茶飯事だった。

だから、私にとって、マインドフルネスはとてもやりやすく、親しみのある状態とも言える。

マインドフルネスと私の悩みの種が一番違う点は、その意識状態で世界を観察するか、自分を観察するか、だけである。

私はいつも世界を観察してしまっていたのだ。

離人感の強い人にとって、マインドフルネスは慣れれば、とてもうまくできるし、自分のコントロール方法やコツが見えてきて、効果的だろうと思う。

離人感はそもそも薬物によるバッドトリップや深い瞑想による幽体離脱体験や金縛りや臨死体験などと意識の上では同じような位置にあるものである。

薬物がなくとも、積極的に瞑想をしなくとも、霊感がなくとも、死にかけなくても、そこに行ける離人感の強い人はドーピングしなくても、猛練習しなくても、才能がなくても、なぜか足がすごい速い人だったみたいな感じと言える。

 

離人感と近いものにPTSDのフラッシュバックもある。

フラッシュバックは脳で起きている反応を見ると、不完全な解離と言われている。

解離の時は身体の感覚というのはとても薄い。私個人の感覚だと、ほとんどない。

ひどい時は自転車に乗っていても、家出をしていても、その感覚が全くないので、事実は覚えているんだけど、本当に自分がそれをしたのか怪しいと思う時があるほどだ。

症状が進むとこれが別人格化したり、記憶まで完全になくなったりする。

しかし、フラッシュバックは身体の感覚は解離と違って、繋がっているのである。(不完全な解離とは本当にうまい表現だ)

フラッシュバックは意識が過去のトラウマにハイジャックされてしまうことにより、ある種の変性意識状態となっているけれども、身体は現在にあるので、汗をかいたり、震えたり、過去の反応と同じことになる。

フラッシュバックのある人(PTSDパニック障害、不安障害)もまた”足の速い人”なのであろう。

そのため、それらの症状を持つ人に対しての効果的な治療方法として、マインドフルネスを用いた新しい、第3世代認知行動療法が生まれている。

マインドフルネス認知療法スキーマ療法、ACT(アクセプタンスコミットメントセラピー)である。

それぞれの違いや、詳しくはこちらを。

decinormal.com

 

しかし、私が考える一番の問題はどんなにマインドフルネスが有効であっても、本人がその時間を積極的に取ろう、やろうと思わねば、できないし、することもないということである。

マインドフルネスとは「意識的に自分の意識を観察する、もう一つの意識が生まれる」時である。

これに実は色んなところで起きているのがわかる。

上手にお腹から歌を歌おうとする時。

ゴルフのスイングが理想的になるようにスイングする時。

疲れないフォームで走ろうとする時。

水を飲まないようにクロールしようとする時。

指定された呼吸を維持しながらヨガのポーズをする時。

どの筋肉が動いているか、使われているかを感じながら筋トレする時。

どれも自分の身体を意識しながら観察する意識があるのだ。

二重の意識で身体を感じるため、集中力も必要で、他のことは考えられない。

こうして、考えてみると、競わない運動をしている時というのはある種の瞑想、マインドフルネスの状態に近いのではないかと私は思う。

悩んだら筋トレしろ、運動しろ、大声を出せ、は実に正しいのだ。

でも、これらだって、やってない人がやるのは大変なことには違いない。

 

もっと簡単で他に何か似たものはないだろうか、二重意識にならなくても、ドライブしまくる意識を自分に取り戻すもの…と考えたら、ふたつの行為が思いついた。

瞑想で魔境(深い変性意識状態)に入ってしまった修行僧に対して、魔境から帰って来させるためにすることは「干し肉を食べさせる」だという。

普段はベジタリアン状態の修行僧にとって干し肉は胃に重い食べ物だろう。

普通の肉でも消化に48時間かかるそうだから、干し肉とくればもっとかかるのかもしれない。

干し肉を噛むには、水分も合わせて欲することだろう。ますます胃がいっぱいになる。

胃がいっぱいになると人は眠くなる。血液が胃に集中し、消化にエネルギーが使われるから。

つまり、魔境に行っていた意識が一気に身体に取り戻され、身体に向かざるを得ない状態が生まれるというわけだ。

ひとつめはこの行為、「食べる」である。

別に干し肉じゃなくていい、いろんなものを味わって、食べる。

噛みごこち、舌触り、味、そんなものに意識を向けるのである。

ストレスがかかって、そのストレスのことで頭がいっぱいになって過食になって、その後に気づいたら寝てる人というのは、この手法を知らず知らずに用いているのかもしれない。

逆に言えば、食べることがもたらす効能が強く、また、確実にあるために、摂食障害もあるのかもしれない。

遠くへ行ってしまった意識を取り戻すために摂食障害の人は食べまくり、つかの間、意識が身体に戻る、すると途端に身体の重さに気づき、太りたくないと思う瞬間にまた意識が飛んで、吐く、そんな流れなのではないだろうか。

アルコール依存症も同じだろう。心地の悪い意識をアルコールがもたらす酩酊という身体感覚によって、つかの間、身体に戻し、意識を発散しようとするのだが、アルコール摂取後の心地の悪さ(身体、意識両方)に気づき、またその心地の悪さを取るために、お酒を飲むのだ。

これをもっとマインドフルネスに近くし、依存にしないためには誰かと会話しながら食べる、である。

会話にも意識が向き、食べ物にも意識が向き、二重の意識を使うからである。

 

もう一つは「さわる」である。

痛いところがある時、私たちはその箇所に自然と手を持って行ってしまう。

さわって腹痛や歯痛が治るわけでもないことはわかるのに、ついついその辺りの箇所を押さえたりさすったりする。

なぜかと言えば、痛い、痛い、と思う時はその痛みという感覚にハイジャックされている(意識が多く使われている)ということを私たちは本能的に知っているからであろう。

痛い部分に触れるだけで痛いということに集中していた意識は一気に手のひらの感覚に戻され、そこに意識が移る。

自分の患部の温度、手の温度、触り心地、腫れ、皮膚の柔らかさ、そんなものを感じるからである。

これを他人がしてくれる行為はてあて、である。

てあては一見、身体そのものに効いているようであるが、意識を身体に戻すことで得られる心地よさとして効いているのだろう。

そして、やはり「食べる」と一緒で自分ひとりではなく、誰かがいた方が、さわるとさわられるの二重の意識を感じやすい。

「さわる」と「食べる」はよく似ている気がする。

「食べる」は皮膚ではなく、内臓に「さわる」行為とも言えるのかもしれない。

これだとふたつの行為ではなく、ひとつしかないということになってしまうが、この意味合いから見れば、セックス依存症というのは、形を変えた摂食障害アルコール依存症なのかもしれないとも思えてくる。

リスカなどは「さわる」の最も強い形での表れなのだろう。

どれも意識を必死に身体に戻そうとするための行為と見ると、とても切ない。

 

依存症者たちはなぜ、こんなにも、必死に意識を身体に取り戻そうとするのか。

それは”意識と身体”が繋がっている時に、最も強く私たちは生きた心地を感じることができると言えるからであろう。

その時は解離もせず、フラッシュバックで過去に飛ぶこともなければ、何かに依存することもないのだ。

人と人との身体のタッチによって引き起こされる身体と意識が繋がる安心感を利用した療法がローゼンメソッドやとけあい動作法となる。

これが人ではなく、好きなペットや動物に触れるとアニマルセラピーとなる。

植物、土、自然に触れると良いとされるのも同じ理由だろう。

人が今日まで絶滅せずに済んだのも、また、人がなぜ、こんなにもセックスを求めるのかといえば、全身でさわるという行為、そこに生きた心地、快感があるからだろう。

さらに、その行為は脳内ホルモンのオキシトシンによって強化される。

また、大脳辺縁系の活性化を鎮め、安心感を強化する(セックスの後に眠くなるのはそういうことだという)。

こうしてみると、かなり強力な作用がセックスにはある。

そのセックスから生まれてくる赤ちゃんが無事に、精神的にも健康に育つのもまた養育者の抱っこや愛撫があるからというのも興味深い。

 

美味しく味わいながらご飯を食べ、時には運動し、誰かの温度を感じながら眠る。

そんなシンプルなことが私たちの意識を身体に繋ぎ止める。

人は太古からそのような生活をしてきた。

獲物を捕ったり、農作物を作ったりする。食べる。セックスをする。子育てをする。

その繰り返しである。

なぜそんなシンプルなことがうまくできなくなってしまったのか。

なぜ意識の暴走が起こるのか。

私にはよくわからない。

ただ、私や多くの被虐者たちや複雑性PTSDや依存症の人々に必要なことはシンプルな暮らしということだけがわかる。

しかし、そのシンプルな暮らしがとてつもなくハードルが高いことのように私には思える。

それは、さわること、意識と身体を繋げることと人と繋がることが連動しているせいだろう。

生まれてから初めて出会った家族という人たちと繋がることができなかった愛着障害の人々が生きにくい理由はこの一点に尽きるのだろう。

人は怖く、人と繋がることは難しいと学びすぎているのだ。

みんなそうやって生きているのに、それがうまくできない。

そして、私は誰かにさわることもさわられることも嫌なのである。

実に困ったものである。