Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録

無題

プロセスワークの概要を聞く会に行ってきた。

とある先生から、プロセスワークが向いているかもしれない、と言われたこともあり、私はこの会をとても楽しみにしていた。

プロセスワークの創始者のミンデル氏の奥さんの書いた「メタスキル」という本がすごく響いたせいもある。

プロセスワーク自体はとても興味深いセラピーで、プロセス指向心理学も個人的に好ましく感じるが、私はプロセスワークをもっと勉強してみたいとは思わなかった。

理由はあるが、その理由は私の解釈でしかないので、ここには書かない。

 

私は今まで一生懸命、勉強してきた。

アカデミックな心理学の勉強はしていない。

完全に独学だったので、図書館の本たちが最初の先生だ。

その後、区の精神相談をしていたギャンブル依存が専門の精神科医の先生に薦められた会により、今のカウンセリングの先生に出会った。

そして、そこで支えられながら、私は様々なセラピーを探り、また新たな先生にも出会い、学び続けることができている。

見ていたドラマのフランケンシュタインの恋のなかで「独学ほど人の御恩を感じる学びはない」という台詞があった。

本当にその通りだな、と思う。

その学んできたことをなにか形にしたいと思うようになり、私はセラピストの資格を取ろう、どのセラピーにしよう、とここ数ヶ月探ってきた。

でも、別に資格はいらないんじゃないかな、と今日、気がついた。

私が話を聞くだけでキラキラしだす人や、安心する人、楽になったという人に私は様々な場所で出会ってきた。

そこに資格の有無は関係がなかったし、それだけで充分ならば、今後もなくてもいいような気がしたのだ。

 

私は人が幸せそうになるとよかったなあと思う。

その人の中の大切な話を聞かせてもらえたことは本当にありがたいことだなと思うし、楽しくもある。

それに対し、感謝の言葉をもらうと嬉しい。

よかった、ありがたい、楽しい、嬉しい。

でも、それらはやっぱり幸福感とは違う。

どこか激しく消耗している自分に嘘はつけない。

私はそうして何人もが元気になるのを見ながら、どうして同じことが彼にできなかったのかと悔やんでしまうのだ。

私が勉強をすることで成し遂げたかったことは不特定多数の誰かではなく、彼を元気にさせることだったからだ。

それは彼が私を安心させてくれた最初の人だったからである。

それほどまでに彼がいて、私は幸せだったのだろう。

 

今後も趣味として、勉強をすることは続けるかもしれない。

楽しく、適当に、気が向いたら。

でも、なんだか、もう、無理に何かになろうとしなくていいのではないかと思った。

私の幸せは誰かが幸せになることではないのだから。

私の幸せとは誰かをわかってあげることではなく、誰かにわかってもらうことなのであり、更にその誰かをわかってあげることなのだ。

私の幸せの半分は、彼が最初に叶えてくれた。

けれども、私は彼をわかってあげることができなかった。

その悔しさと悲しさを変形させたものを彼以外の人に差し出し続けることを私は選べないし、選びたいとも思っていない。

そこに幸せを感じていないんだもの。

何かが違う、やりたいことじゃない、と思ってしまうのは、セラピーの流派や手法が問題なのかと思っていたが、実のところは、私のセラピストになる目的が最初から多くの人を手助けしたいというセラピストになりたい人たちの目的とずれているのが問題なのだ。

私なりの勉強をしてきて得た答えはひとつ前の記事で書いたことなのだろうと思う。

どんなセラピーより、どんなカウンセリングより、重要なことは触れ合うことなのである。

そして、私には触れ合いたいと思う相手はもういない。

今後そのような相手が現れる見込みもないし、望んでもいない。

厳然たる事実を前に、私は心底、疲れ切ってしまっている自分を感じるのみなのである。