Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録

陰翳礼讃

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ダイヤモンドもガラスのビーズも光があるから輝く、だから愛は光だと歌うこの曲を聴いて、考え込んでしまった。

ダイヤモンドもガラスのビーズも光があるから輝くのではなく、自身が光を屈折させ遮る物質だから輝くのである。

光は見えない。

見えたと思う時、それは目という光を遮るものを通して見えたということに過ぎない。

光は光を遮るものがあって確認され、その光を遮るものの反射や屈折で色や輝きが生まれる。

愛が光に見えるのだとしたら、そして、それが誰かの/何かの輝きに見えるのなら、それは光や誰かや何かではなく、自身の輝きでもあり、自身の愛でもある。

愛が光なのではなく、愛は光の一部であり、私たちは全員、光であり、同時に光を屈折させ、遮る物質だ。

 

人はそれぞれ鏡である、というのはまさしくこの原理なのだと思う。

誰かが輝いて見える時、相手も輝いているし、そう見えている自分の一部もその輝きで光り、さらにその光を受けて、相手はまた輝いているのである。この繰り返しだ。

最初はどっちの光が当たったのかわからない。なぜなら光はとても早いから。

どちらともなく、光を放ち、受けているというのが最も正しいかもしれない。

相手も私も、キラキラと輝ける場合を私たちは相性がいいとか気があうとか、そう判断する。

 

人は色々な形をしている。複雑なカットとシェイプを持つ宝石だ。

そんな宝石に色々な光を色々な角度から当てる。

ワイドショーで犯人の印象を近所の人や同級生に聞いたりすると、大それた事件を起こすようには見えなかったなどと言われていることがある。

逆にあの人は本当にすごい人だよと言われている人に会っても、全くピンとこないこともある。

それはみんなが見ている、光を当てているカットの面がそれぞれ違うからだ。

それまで光が当たってこなかった、自分でも知らない面に光が当たり、見たこともない輝きを発することもあるだろう。

 

人間とはそんなものだ、こういうものだと私はずっと理解していた。

でも、自分のことに置き換えることができていなかったと今、書きながら気がついた。

私は彼に見たこともない光を見た。

あまりに見たことがなかったものだから、つい彼の放っている光が何かをずっと探し回っていたわけだ。

その光を探していたら、その背後に闇が見えてきた。

その闇は精神病理的に双子のような同種の私の闇を明らかにした。

闇だけではなく、光が見せてくれたものもたくさんあった。

人間の身体や精神や感情の不思議、それにまつわる古今東西の教えや学び、と書くとすごくかっこいいけれども、きっとそれは付録に過ぎない。

一番は怠惰で他人にそれほど興味がないと吐き捨てるように言っていた私がこんなに誰かのためだけに勉強するんだ、意志が弱いと思っていたけど結構強いんだ、みたいなことだ。

彼の放っていた光は私の意外すぎる優しさや真面目さや強さを照らし出したわけだ。

 

本当に笑ってしまう。

私に見えていた彼の素敵なところは優しくて強くて真面目なところなのだ。

わかりやすいほどに、彼の光は私の見たことない私の光でもあったわけである。

彼にはわかりにくい優しさとわかられにくすぎることに耐え続けてきた強さがあった。

ただの優しさや強さではない、わかられにくすぎることで多く生まれる誤解すらも許してきたものすごい優しさで、それを保ってきただけのものすごい強さだ。

それでいて、やさぐれるでもなく、不平不満をあけっぴろげに言うでもなく、彼は粛々と一つ一つのことに対して、ひとりで真面目に考え、深く悩み、静かに暮らしている。

きっと今も。

悩み過ぎて、病んでいるけれども、それは私も同じだ。

闇と光はいつだってセットだから、それは避けられないことだ。

 

これらを踏まえて考えた時、彼にも私にもできていないことがあることに私は気づいた。

許すことだ。

深い深い闇があるからこそ、見たこともないほどの明るい光がそこに見えてくる。

そのカラクリに気付かなくてはいけない。

闇と光がセットなように、また許しと癒しもセットだ。

光を許すとき、闇は癒される。

光を許すとは、強く、優しく、勤勉な自分の能力を認めると言うこと。

その能力をしっかりと使いこなすこと。

能力がないわけではない、単に使いこなせていないから無力感と罪悪感に苛まれるだけなのだ。

能力は深い闇の中から生まれてきた光なのだ。

人生を苦痛と悩みでいっぱいにしてきた闇が、その能力を培ってきた。

闇にも役割や意味がある。

それは私たちに光を見せるためなのではないかと私は思う。

光を認めた時、闇は一つ目の役割を終え、癒されるのである。

そして、次の役割に向かって行く。

 

赤ちゃんは真っ暗な子宮という穴の中から生まれてくる。

10ヶ月もの間、そこで眠っている。

ぎゅうぎゅうの狭く苦しい暗い道を抜けた赤ちゃんには明るい世界が広がる。

先日読んだ記事では、私たちのいる宇宙は、違う宇宙のブラックホールの中ではないかということであった。

ブラックホールは様々なものを吸い込み、無限に近いほど圧縮するが、あるとき、それが爆発する。それがビッグバン。

様々な星が輝く宇宙はビッグバンから生まれたようだが、上記の論理だとブラックホールから生まれたことになる。

暗いから明るいが生まれるのがこの世の摂理なのか?

そして、明るいを生き切った時、人は再び、死という暗さに戻っていくように、明るい星々が宇宙の中のブラックホールに吸い込まれてゆくように、明るいから暗いに戻ってゆく循環の元に私たちは生きているのか?

時を経て、癒された闇は二つ目の役割を始める。

今度は、再び、明るい光を産むために光を飲み込んでいくのだ。

 

愛だけが光ではない。愛が光なら、闇もまた愛なのだ。

”授かった愛を輝きに変えるよ、燃え尽きるその時まで”

この曲の最後に歌われている歌詞は生きるということの意味、そのものなのかもしれない。