Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録

探し物 1

「孤独と愛着」を読んでから、ずっともやもやしている。

幼少期に養育者に愛着を持てなかった人々の一部は、確かに物語やドラマや映画などに溢れる「親子や家族のファンタジー」を吸収しながら、そのようなファンタジーをまるでハンバーグをつくるときのツナギのようにして、現実の養育者のごく一部の望ましい部分を一生懸命かさまししながらファンタジーの中で生き延びる。

しかし、そんなかさまししたファンタジーだからこそ、どこかで崩壊が起きる。

ここまではよい。

ただ、そのような崩壊が起きた人で、そこから回復しようとする人は新たなファンタジーを作り上げたりはしないのではないかと私は思うのである。

自分が持っていたファンタジーを明らかに見ること、それは諦めることなのである。

我が養育者の限界、ありのままを見るとき、そこには養育者ではなく、ただの人がいる。

ああ、この人、そういう人なんだなあというだけである。

養育者が代表となり、そこで全ての人がただの人であると認識する。

虐待という出来事が代表となり、全ての出来事がただの出来事なんだと諒解する。

そのような世界ではもはやファンタジーは不要だし、なんの意味も意義も持たない。

だからダブルファンタジーなどないのである。

 

本の中に実父に性的虐待をされた女性が出てくる。

彼女はカウンセリングの終わりに父親コストコに行くという非常にリアルな夢を見たという。

その夢ではただただ普通の買い物、普通の親子の関係性だったそうだ。

これを著者はファンタジーに違うファンタジーを上塗りしたと書いていた。

本の中ではひとつのファンタジーを超えた先に新たなファンタジーを作る、ダブルファンタジーを被虐者たちは持つと書かれているので、この上塗りこそがダブルファンタジーと捉えているのだろう。

しかし、私から見れば、それは完全なる過ちであろうと言わざるをえない。

この例の女性の夢は上塗りでもなく、ダブルファンタジーの構築でもない。

この夢は彼女が抱いていたファンタジーのなかの父親との普通の関係性なのである。

それをリアルな夢として体験する、現実にはできなかったことを夢で補完することによって、彼女は自身のファンタジーと完全に訣別したのだ。

彼女はその夢をダブルファンタジーとして、生きていくわけではないのである。虐待をされていた現実と、普通の関係性の夢の間にある壁、枠がなくなっただけである。

人間なんて所詮こんなもんなんだよね、という爽やかなどうでもよさとともに、彼女は現実に着陸しただけだ。

ファンタジーへの執着を手放したからこそ、その爽やかなどうでもよさが得られ、それが彼女の心の平穏をもたらしたのだろう。

もし、被虐者である異邦人がダブルファンタジーめいたものを再び抱くとしたら、それは養育者との間には得られなかった愛着の絆を誰かと結べそうな時であろう。

それを現実にしたくて、信じたくて、仕方がない時だ。

それは恋愛的なパートナーかもしれない、職場の仲間かもしれない、友達かもしれない、あるいはもし対人援助職についているのならクライエントに対してかもしれない。

それは成功するかもしれないし、しないかもしれない。

 

私の信じていたファンタジーは次々に壊れていってしまった。

壊れた順番は第一には結婚、第二には家族、第三には勉強であった。

中身がすかすかのファンタジーだから、決してありのままの現実ではないから、その維持に多大なエネルギーを注ぎ、私はいつも疲弊していた。

勉強をいくらしたところで特に何かが変わるわけではないのに、変わるのかもしれないというファンタジーを抱いていた少し前の私をみればよくわかるであろう。

しかし、私はそれに気付いて、勉強をやめた。

私はこの勉強すればなんとかなるというファンタジーをずっと信じていたし、私の人生はこれがあったからこそ、かろうじて、一見は普通の生活であった。

しかし、もはやそのファンタジーも私の人生では効力を失っていると明らかに見たので、諦めたのである。

私を含め、みんななんらかのファンタジーを維持するのに一生懸命である。

守りたいものは守ればいい。

守るほうが生きやすい。

守って守って守り抜けばいい。

私は心からそう思う。

ファンタジーのない現実で暮らすのは、無音の宇宙をさまようようだからだ。

性的虐待をされていた彼女はすんなり着陸できたのに、どうして、私は未だにさまよっているんだろう?

 

いろいろな星が見える。

私はそれを見ている。

でも、その見えている星の光は何万年も前の光なのだ。

結局のところ、私は様々な人と様々な話をして、わかりあった気がしようとも、そうでなかろうと、何万年も前の光を見ているのとあまり変わらないのかもしれないと思っている。

星の光は人の話とよく似ている。

どんなに都合良く解釈しようと、精緻に分析して理解できようと、そもそも、その星は、自分から遥か遠く、何万光年も先にいて、私にはその人の話しか観測できない。

何万年前の光しか観測できない。その人をじかに見ることはできない。

そのくらいの遠さを抱えた世界で私はどのように生きてゆくのかを考えている。

やはり青の世界が私の居場所なのだろうか。

現実に居場所などないのだろうか。

本の中の彼女と私は何が違うのだろうか。

私は何かをやり残しているのだろうか。

私は何かに気がついていないのだろうか。

そんな問いはぽっかりとした私の心の中で反響する。