Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録

やる気になったはずなのだが、それはつかの間で、また何も感じない病になってしまった。

午後の浅草橋のパーツ屋さんのたくさんの種類のパーツをただただ目的もなく、ぶらぶらと見て回り、一体、このたくさんのパーツたちはどこから来るのか、どこへ行くのか、人の物欲とは尽きることがないのか、などを考えた。

街ゆく人々やたくさんの店が偽物のような、夢の中のような、私が透明人間のような、そんな感じを引きずって暑い夏を歩きながら、ああ、私はもう治りようがないのかもなあと思った。

何もかもがえらく遠く、しかし、馴染み深いこの感じに私の内面は静まり返る。

ぽっかりとした中で静けさがひたすらに反響するようだ。

どのような素敵な講演を聞いても、ぽっかりの中の空気が一時的に温まるだけで、ぽっかりはぽっかりのままだ。

信じるものは救われるとはよく言ったものだなあと思う。

信じるものは救われるという言葉自体を私は信じることができないから困っているのだし。