Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録

狙撃手

私は相も変わらず、綾野剛が出ているドラマを見ている。

そして、あの目の造形に拍手をしたくなる。

なんでしょう、あの目。

彼によく似たあの目。

先週はHuluにある「S 最後の警官」というドラマを見ていた。

綾野剛は超優秀なSATの狙撃手である。

一瞬で確実に急所を射抜ける。つまり被疑者を殺せるわけである。

しかし、いまなら確実だという瞬間が何度あっても、上官からの命令がなければ、決して引き金を引くことはできない。

その緊張感とイライラ感。

私はそれにものすごく反応していた。

なんでだろう、私は上からの命令は絶対の団体にいたことはないのになあと不思議に思っていた。

その理由が今日になって、やっとわかった。

 

私は感じ取れるものが、物や何かの気配の人が心底うらやましい。

そのスキルを使った表現作業や創作活動は職業としても、趣味としても、おおむね楽しいだろう。

感じ取れるものが、誰かの隠された質のようなもの、その本人にも見えていないものなときは、ほんの少し伝えただけでも、その本人からあらぬ誤解や非難や恐怖を向けられる対象となってしまう。

その対象にならないようにするには、わかるけれども伝えない、射抜かないという手法しか持てなくなる。

それが一番、安全で無難なのだ。

 

私に感じ取れるものは、その人の心理的な急所だ。

心理的な急所がわかる。見える。間違いなく、そこを射抜くと、その人の中でうごめくものに文字どおり風穴が開く。

しかし、その衝撃に耐えられる人はとても少ないことを私は経験的に知っている。

私の上官は私の経験なのだ。

射抜きたい、いますぐ、引き金を引けばそれはあっという間。

そう思っても、私は引き金を引けない。

私は決して、誰かを傷つけたくはないし、ましてや殺したいなどは微塵も思っていない。

むしろ、うごめくなにかのもたらす不快感から誰かを解放したいだけなのに、現実は裏返ってゆくばかり。

 

深い霧の中でうごめく何かを注意深く見つめる。

ありふれたたくさんある小さな何かなら、私もそれほど躊躇せず、射抜く。

それらは大抵、感謝されたり、すごーいと驚かれるだけで済む。

大きく、そして、長く連なる、まるで日本むかし話のオープニングだかエンディングだかの雲に見え隠れする龍のようなそれの場合は急所が見えても、私は射抜かない。

見えているのに射抜けない。

どういうことが起こるかすらも、だいたいわかるからだ。

急所を射抜くのではなく、代わりにどこか他の部分に輪ゴムを指で弾いてぱちんとやる、というような伝え方を持ってしても、そこまで巨大な龍は私を威嚇するか、逃げていくかだ。

見えているものを射抜くことを許されず、威嚇されたり逃げられたりはとても悔しい。

これがSATの狙撃手のフラストレーションとよく似ているのだろう。

思うようには引き金を引けないフラストレーション。

射抜いたら死んでしまう急所ではなく、相手が「ん?なんだこれ?あらら?」くらいを感じるくらいで済む場所も見えたらいいのに。

そしたら、そこに狙いを合わせることができるのに。

誰にもわからない孤独な悩み。

孤独なフラストレーション。

どうしたらいいの。なぜ伝わらないの。なにを伝えたらいいの。

通じない、誰も見えない、私の見えているものが。

私は今日もうごめく龍を見つめる。