Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録

冷凍

身体の芯が冷えきって、かたく、こわばってしまっているようだ。

かつての私なら、大切で必要ななにかをなくしたら、新しいものを探したり買いに行ったりしたものだが、そのような気持ちも湧かないのである。

なくす、消える、壊れる、終わる。

つまるところ、人生とはそれの繰り返しであり、失われたなにかをいくら補完しようとしたって、次はまた違う何かが失われてゆく。

その繰り返しを、人は欲求と呼ぶ。

 

私に欲求がないわけではない。

本当に欲しいものが見つからないだけだ。

どこにいけばあるのかも、わからない。

手に入れられない。

だから、欲求は雪国の大量の雪のように何メートルにも降り積もり、街を覆い尽くし、氷点下の気温で氷のように固まる。

私に感じられる、固くこわばり冷え切ったものは私の出所が失われた欲求なのである。

 

昔、書いた自分の文を読んでいた。

本で読んだことを書いていた。

簡単にまとめると以下の通りだ。

チリには年間2ミリしか雨が降らない街がある。

その2ミリの街で雨が降るとき、人々は大慌てで、街は死人が出たりするそうだ。

その地域では砂に死者を埋めても、死者はそのままの形を保つ。腐らないのである。

砂は忘れず、記憶しつづける。

一方、雨が降る、水がたくさんある日本では、水に流すという言葉もあるし、土葬をしたら、すぐに腐り、分解され、白骨化する。

水は忘れ、流れ続ける。

そんな風土の違いは、そのまま、そこに住む人々にメンタリティの違いを生んでいるのではないか、と思ったという記事だった。

 

私はこのような意味合いで言えば、年がら年中、極寒の地のようなところに住んでいるのではないだろうか。

ありとあらゆる欲求が、感情が、出た瞬間に冷凍保存されてゆくような。

解凍されない冷凍保存。

そのような欲求だけが遺跡のように、廃墟のようにあり、しんと静まりかえっている。

まじまじと廃墟や遺跡を見ると、それがいつのものかすらわからない。

気がつけば、増えているようでもある。

私は回復するのか、回復しているのか、はなはだ怪しい。

まあ、それらに気付いた、ということが重要なのかもしれないが。

私は二重の世界で生きている。

それをつなげる術は未だ持てぬままだ。