Journal de la Rive Droite 右岸通信

物理的には私は右岸にいる 精神的には左岸にいる これは右岸と左岸に解離している私の通信記録

イスタンブールの猫

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一人でイスタンブールへ行っていた。

朝はホテルのバルコニーから屋根を渡る猫を眺め、昼は街の中のいたるところにいて、ご飯をくれる優しい店員さんをちゃんと知っていてご飯をおねだりしたりなでなでしてもらうけれど気ままな猫とぐうぐう寝ている犬たちを眺め、ひたすらパン的な何かを食べて、私にしてはとても珍しく、夜は歩き切って疲れて寝ていた。

ご飯料理もたくさんあるのだが、それ以上に見たことないパン的な何かが多い街だったので、パン的な何かを食べることが多かった。

思うことは色々あった。考えることも色々あった。

聞いていた音楽は行きの飛行機で「注目のアーティスト」に入っていたamber coffmanばかりだった。

すっかり気に入ってしまって、ホテルの部屋で身支度するときも、iPhoneからyoutubeで流して聞いていた。

帰宅してからCDを買おうと思ったが、なんとレコードか、配信しかなく、CDがないのには驚いた。でも、合理的でいい方法だなと思った。

 

私は英語もまともに話せないので、トルコ語になると何が何やらさっぱりである。

ただの一言もわからない。なんだかそれが良かった。だから、覚えもしなかった。

トラム、メトロ、バス、フェリー様々な乗り物に乗って街じゅうを移動する。

私の目には何人なのかもわからない人々がたくさんいて、私もその一人であることが嬉しかった。(まあ、私の場合は見た目にアジア人なのは確実なのだが)

わからない言葉の中にいる方が、私は気が楽なようだった。

ドーハでトランジットだったが、そこではっきりそれを意識したのだった。

イスタンブールからドーハ行きにはほとんど日本人がいない。

しかし、ドーハから羽田行きには日本人が多い。

ドーハでのわずかなトランジットの時間で聞こえてくる日本語の煩わしさと意味のない会話に私はすっかり疲れてしまったのだから。

同じ国の人で同じ言葉を話すのにまるで通じ合わない人々。身振り手振りと互いにまともに話せない英語で一生懸命伝え合って笑い合う人々。言葉を話せないのに人懐っこい猫たち、おとなしい犬たち。

そんな差が否応なく浮き彫りになる。

 

日本はどこに行ってもサービスが驚くほど均一で、どこに行っても自動販売機があって、コンビニがあって、値段も同じくらいだ。

何も考えなくても「向こうから解決してくれる」作りなのだ。

社会全体が過干渉、過保護というか…

私は今回、イスタンブールの田舎の方の空港をうろうろする羽目になった。

手持ちのトルコリラを使い切りたく、空港までのタクシーにチップを出しすぎて、やべえ、カフェでは足りないレベルだとカフェの表示を見た瞬間に気がついたからだ。

色々な売店を覗くと、同じ空港にありながら、ペットボトルの水の値段が街の中の8倍なところもあったり、とにかく全然違う。

結局、全部回って、一番安いところで買ったら、おやつも買えて、一段落であった。

「自分で解決する」作りは確かに面倒だ。でも、これで私は帰りの空港で最低何リラあれば問題ないのかを一生忘れないだろう。財布にのこったのはわずか0.5リラ。

自分で考えて、行動して、覚えることをあらかじめ奪われた日本の街は快適だけれど、そこにいる人たちと私は相容れないものがあるのかもしれない。

何せ、日本語を話すのに全く通じ合えない親の元で、私は小さい頃から自分で考えて、行動して、覚えることで生き延びてきたのだから。

言葉はたくさんいらない。

私は最近、よくそう思う。

私が私の内面の整理をできる言葉があれば充分で、他者とは言葉などない方がうまくいくのかもしれない。動物にはなくても通じるのだから。

日本人の私が完璧に歌詞の意味を理解できているとは言い難いであろう、amber coffmanのすっかり気に入ったこの曲だって、音楽になっているからこそ、伝わってくるものがあったのであって、これが単なる言葉として目の前に出されたとしたなら、私はここまで気に入ったとは思えない。

私の、人々との関わり方は、親しくなければ笑顔で挨拶をするだけ、親しければ何かを食べたり飲んだりして一緒にまずいとか美味しいとか言って笑って、なんだかそれだけでもういいのかもしれないなあと思うのだった。

私はシンプルにマイペースに生きてゆきたい。イスタンブールの猫たちのように。